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キャリアの軌跡 堀見 忠司

人間万事寒翁が馬


1970 京都府立医科大学 卒業

    岡山大学医学部第1外科 入局

    岡山県備前市 市立備前病院外科

1972 岡山県津山市 津山中央病院外科

1978 岡山大学医学部第1外科医員

1980 アメリカ・カリフォルニア大学(UCLA)

    外科 留学

1982 岡山大学医学部、助手、講師、医局長

    同大学歯学部講師、新見女子短期大学講師

1986 高知県立中央病院、外科部長

1997 同病院 副院長

2002 同病院 病院長(へき地医療センター長、がん研究所所長、 HLA検査センター所長併任)

2005 高知医療センター 副院長 兼 がんセンター長

2006 同病院 病院長


● Specialized field: gastrointestinal surgery, hepatobiliary pancreatic surgery, organ transplantation, general surgery (mammary gland, thyroid, vascular surgery etc), gastrointestinal endoscopy, medical care, hospital management ● Hobbies: Sports especially five judo judo, athletics ● Motto of motto: "Reporting · contact · consultation", "humility and patience"


医師としてのターニングポイントは

私は昭和45年京都府立医科大学卒業後、岡山大学第1外科に入局しました。最初の赴任病院の私立備前病院で救急医療を学び、一般外科手術は津山中央病院と岡山大学病院にて教えていただき、研究室では腫瘍免疫・移植免疫の研究をしました。研究は、HLAや顆粒球の細胞毒試験に関するものでしたが、札幌医科大学胸部外科に国内留学して研究を指導していただきました。


最も大きな医師としてのターニングポイントは、その国内留学が縁で発生した国外留学(アメリカ ロサンゼルス)です。私はUCLAのPI Terasaki先生のもとで2年間、臓器移植の研究とROPA(Regional Organ Procurement Association)の1員として留学しました。また初めて開設したUCLA柔道部のインストラクターをして、沢山の弟子をつくり、言葉は喋れなくてもアメリカ人たちとも何の違和感もなく楽しく生活ができました。またUCLAでの研究はHLAをはじめ免疫学的寛容に関する研究をしましたが、世界のレベルの高い医学雑誌に論文発表することの重要性を、つくづく教えられました。またTerasaki先生は日本の移植医療に深い関心と厚情をお持ちになり、アメリカの腎臓を太平洋横断して日本に送る大きなプロジェクトを遂行されました。今まで日本だけの自分が世界の中に身を置いたことは、自分の中の何かが弾けたように思いました。


アメリカから帰国して、岡山大学付属病院の外科医として勤務し、岡山大学第1外科教室では学位のインストラクターとして研究室を任され10数名の学位取得医師を指導し、『堀見グループ』として貢献し、教室では医局長を務めました。 誰もが遭遇する親の病気は、何のためらいもなく、私を高知の片田舎に帰しました。昭和61年(1986年)高知県立中央病院に赴任した直後の高知県で最初の生体腎移植の不成功はこたえました。しかし、2例目からは通常に成功し、腎移植ばかりでなく、高知で初めての門脈合併切除や肝動脈再建を扱う消化器外科、マイクロサージェリーによる空腸の遊離移植などの種々の術式を医学書から学び、次々と新技術を開発し、また肝移植の手技を使って肝動脈と門脈と肝静脈を遮断して肝切除を施行したり、スーパー低位前方直腸切除術など幸運にも種々の新しい技術を成功させました。また腹部大動脈瘤の手術は輸血不要の出血の少ない術式で、手術場の看護師を驚かしたものです。また高知県立中央病院は岡山大学の関連病院でしたので、毎年、いくつかの診療科に研修医が派遣され、多くの優秀な医師が生まれました。このように優秀な後輩を育てることが、いつしか私の最大の喜びとなり、大きな夢を託す存在となっていきました。 高知県立中央病院では、平成14年から病院長を勤めていましたが、平成17年に高知県立中央病院と高知市立市民病院が統合して高知医療センターが開院しました。日本で初めてのPFI事業や全く新たな自治体病院の運営にどっぷりと、はまりました。そして60歳でメスを置き、最近では病院管理の論文発表をしながら、高知県医療のアップと維持を天命と考え、病院運営に身を委ね、現在に至っています。


医師としてキャリアを積むうえで最も大切にしていることは

私は、『医業に携わることを許された者』として、人間万事塞翁が馬の格言どおり、「苦労は報われる」と「蒔いた種はまた生える」をモットーに夢と希望をあきらめずに、日進月歩に変化する医療・医学・医術を畏怖の心を持って、いつも学ばなければならないと考えています。もしその心がなくなれば、『医業に携わってはいけない』とさえ考えています。また人間の永遠の命は不可能ですので、いつも病める人には優しく親切にして感謝されることを心がけています。 医療の中では、人間関係や病院関係でつらく、苦しいことは沢山あります。しかし捨てる神あれば拾う神ありで、自分の卒業した大学関係のみならず国内・国外の他大学出身の先生を大事にすることは、逆に他大学の先生から大事にされることになり、最後は大きな世界が広がります。


これから医師としてキャリアを積む後輩へのアドバイス

医業は、産業として安定し、職業として人に尊敬される仕事です。それ故に、人間として『医業に携わることを許された者』は特別な仕事として、全生涯を人道のために捧げ、患者の打ち明ける全ての秘密を厳守し、医業の名誉と尊い伝統を保持することなどを誓い、謙虚な向上心をもって常に自分を研鑽し、いわゆる“ヒポクラテスの誓い”を実践しなければなりません。「他人は自分を写す鏡」と言います。医師として、同僚の医師、看護師、コメディカル、事務そして患者さんの方などを「鏡」と思って歩むことは重要なことです。 大事なことは、目標を設定し、それを目指していろいろな道を辿り、努力していると必ず、最後は沢山の枝をもった大木に育ちます。医師としての目標は立派な医師、腕の良い医師、さらに患者に慕われる医師などがあります。 次に大事なことは後進を育てることです。褒められて育った私は人を褒めることによって人を育てます。まず人が喜ぶ姿が自分の喜びと感じるようになり、友情や愛情は量と質共に徐々に増え、醸成され発育成長します。 次に嫉妬と傲慢を排除し、忍耐と謙虚に生きるべきでしょう。嫉妬したり、腹を立てたりすると、冷静な判断が失われ、焦ったり興奮したりすると、全てに失敗したり不成功に陥り、逆に恨みや憎しみをかいます。 また人の話を傾聴する「聞き上手」になることは、患者さんとの間や全ての人間関係において重要なことで、信頼されるようになります。 最後は、頑健な肉体でしょう。普段から体を鍛え、自己健康管理に気をつけ、暴飲暴食をつつしみ、早起きを励行し、頑健な身体を維持しなければなりません。「健全な精神は健康な身体に宿る」です。 人生は必ず終わりが来ます。「引き際が重要」と昔から言われています。勿論、体力、情熱そして行動力や勤勉性は、人によって異なります。したがって引き際の年齢は人によって異なりますが、常に優れた後輩を育てることを考慮して、時には引き際を振り返りましょう。


My キャリアパス                 

私は、昭和39年に高知県の私立土佐高等学校を卒業し、昭和45年に京都府立医科大学を卒業し、岡山大学第1外科に入局しました。最初の派遣病院は備前市立備前病院で次が津山中央病院でしたが、岡山大学付属病院でも長い間、お世話になりました。そして生まれ故郷の高知に帰り、現在、高知医療センターの病院長を務めています。私は、「ヒポクラテスの誓い」でいう『医業に携わることを許された者』として、これまで医療の世界に身をおいて41年になりました。これまでの人生は、「人間万事塞翁が馬」と言われるように、「忍耐と我慢」で過ごして来たようにも思えますし、「好き勝手に自由奔放」にやって来たようにも思えます。

この度、医師としてのターニングポイントやキャリアを積むうえで重要なことを、これからの医師の方々に対して、NPO岡山医師研修支援機構ホームページに、不肖私のキャリアの軌跡をしたためる機会をいただきましたので、感謝をこめて記させていただきます。

初めての県外生活と京都府立医科大学学生時代

今をときめく竜馬の国、土佐の高知の片田舎から、古都京都の京都府立医科大学に入学して、初めて大学の医学部や付属病院を見たときは、今まで高知で見ていた幾つかの大きな病院と比較して、そのスケールの大きさに驚かされました。


生まれて初めて親元を離れての下宿生活の不安と期待、浪人同級生や留年上級生が煙草をふかしている姿は本当に信じられない光景でした。大学は医科のみの単科大学でしたので、1学年数は約80名が皆同じ職業になるように教育を受けていました。すると競争より仲間意識が強く生まれ、楽しい日々となりました。大学に入って始めた柔道は6年間一生懸命取り組み、今や五段になりました。その柔道は、私の人生に大きな影響を与え、同級生、先輩、後輩との出会い、さらには他大学の柔道部員との親交は西日本を中心に全国に「おい、おまえ」の仲間をはぐくみ、後日、色々な大学の優秀な医師に恩恵をこうむりました。また私たちは西日本医科学生体育大会では準優勝でしたが、後輩たちは何度も優勝を達成しました。本当に誇るべき後輩たちで、ここに後進指導に賭ける喜びが生まれました。


さらに先輩の京都府立医科大学柔道部の内科医師HO先生の影響は大