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キャリアの軌跡 堀見 忠司

人間万事寒翁が馬


1970 京都府立医科大学 卒業

    岡山大学医学部第1外科 入局

    岡山県備前市 市立備前病院外科

1972 岡山県津山市 津山中央病院外科

1978 岡山大学医学部第1外科医員

1980 アメリカ・カリフォルニア大学(UCLA)

    外科 留学

1982 岡山大学医学部、助手、講師、医局長

    同大学歯学部講師、新見女子短期大学講師

1986 高知県立中央病院、外科部長

1997 同病院 副院長

2002 同病院 病院長(へき地医療センター長、がん研究所所長、 HLA検査センター所長併任)

2005 高知医療センター 副院長 兼 がんセンター長

2006 同病院 病院長


● Specialized field: gastrointestinal surgery, hepatobiliary pancreatic surgery, organ transplantation, general surgery (mammary gland, thyroid, vascular surgery etc), gastrointestinal endoscopy, medical care, hospital management ● Hobbies: Sports especially five judo judo, athletics ● Motto of motto: "Reporting · contact · consultation", "humility and patience"


医師としてのターニングポイントは

私は昭和45年京都府立医科大学卒業後、岡山大学第1外科に入局しました。最初の赴任病院の私立備前病院で救急医療を学び、一般外科手術は津山中央病院と岡山大学病院にて教えていただき、研究室では腫瘍免疫・移植免疫の研究をしました。研究は、HLAや顆粒球の細胞毒試験に関するものでしたが、札幌医科大学胸部外科に国内留学して研究を指導していただきました。


最も大きな医師としてのターニングポイントは、その国内留学が縁で発生した国外留学(アメリカ ロサンゼルス)です。私はUCLAのPI Terasaki先生のもとで2年間、臓器移植の研究とROPA(Regional Organ Procurement Association)の1員として留学しました。また初めて開設したUCLA柔道部のインストラクターをして、沢山の弟子をつくり、言葉は喋れなくてもアメリカ人たちとも何の違和感もなく楽しく生活ができました。またUCLAでの研究はHLAをはじめ免疫学的寛容に関する研究をしましたが、世界のレベルの高い医学雑誌に論文発表することの重要性を、つくづく教えられました。またTerasaki先生は日本の移植医療に深い関心と厚情をお持ちになり、アメリカの腎臓を太平洋横断して日本に送る大きなプロジェクトを遂行されました。今まで日本だけの自分が世界の中に身を置いたことは、自分の中の何かが弾けたように思いました。


アメリカから帰国して、岡山大学付属病院の外科医として勤務し、岡山大学第1外科教室では学位のインストラクターとして研究室を任され10数名の学位取得医師を指導し、『堀見グループ』として貢献し、教室では医局長を務めました。 誰もが遭遇する親の病気は、何のためらいもなく、私を高知の片田舎に帰しました。昭和61年(1986年)高知県立中央病院に赴任した直後の高知県で最初の生体腎移植の不成功はこたえました。しかし、2例目からは通常に成功し、腎移植ばかりでなく、高知で初めての門脈合併切除や肝動脈再建を扱う消化器外科、マイクロサージェリーによる空腸の遊離移植などの種々の術式を医学書から学び、次々と新技術を開発し、また肝移植の手技を使って肝動脈と門脈と肝静脈を遮断して肝切除を施行したり、スーパー低位前方直腸切除術など幸運にも種々の新しい技術を成功させました。また腹部大動脈瘤の手術は輸血不要の出血の少ない術式で、手術場の看護師を驚かしたものです。また高知県立中央病院は岡山大学の関連病院でしたので、毎年、いくつかの診療科に研修医が派遣され、多くの優秀な医師が生まれました。このように優秀な後輩を育てることが、いつしか私の最大の喜びとなり、大きな夢を託す存在となっていきました。 高知県立中央病院では、平成14年から病院長を勤めていましたが、平成17年に高知県立中央病院と高知市立市民病院が統合して高知医療センターが開院しました。日本で初めてのPFI事業や全く新たな自治体病院の運営にどっぷりと、はまりました。そして60歳でメスを置き、最近では病院管理の論文発表をしながら、高知県医療のアップと維持を天命と考え、病院運営に身を委ね、現在に至っています。


医師としてキャリアを積むうえで最も大切にしていることは

私は、『医業に携わることを許された者』として、人間万事塞翁が馬の格言どおり、「苦労は報われる」と「蒔いた種はまた生える」をモットーに夢と希望をあきらめずに、日進月歩に変化する医療・医学・医術を畏怖の心を持って、いつも学ばなければならないと考えています。もしその心がなくなれば、『医業に携わってはいけない』とさえ考えています。また人間の永遠の命は不可能ですので、いつも病める人には優しく親切にして感謝されることを心がけています。 医療の中では、人間関係や病院関係でつらく、苦しいことは沢山あります。しかし捨てる神あれば拾う神ありで、自分の卒業した大学関係のみならず国内・国外の他大学出身の先生を大事にすることは、逆に他大学の先生から大事にされることになり、最後は大きな世界が広がります。


これから医師としてキャリアを積む後輩へのアドバイス

医業は、産業として安定し、職業として人に尊敬される仕事です。それ故に、人間として『医業に携わることを許された者』は特別な仕事として、全生涯を人道のために捧げ、患者の打ち明ける全ての秘密を厳守し、医業の名誉と尊い伝統を保持することなどを誓い、謙虚な向上心をもって常に自分を研鑽し、いわゆる“ヒポクラテスの誓い”を実践しなければなりません。「他人は自分を写す鏡」と言います。医師として、同僚の医師、看護師、コメディカル、事務そして患者さんの方などを「鏡」と思って歩むことは重要なことです。 大事なことは、目標を設定し、それを目指していろいろな道を辿り、努力していると必ず、最後は沢山の枝をもった大木に育ちます。医師としての目標は立派な医師、腕の良い医師、さらに患者に慕われる医師などがあります。 次に大事なことは後進を育てることです。褒められて育った私は人を褒めることによって人を育てます。まず人が喜ぶ姿が自分の喜びと感じるようになり、友情や愛情は量と質共に徐々に増え、醸成され発育成長します。 次に嫉妬と傲慢を排除し、忍耐と謙虚に生きるべきでしょう。嫉妬したり、腹を立てたりすると、冷静な判断が失われ、焦ったり興奮したりすると、全てに失敗したり不成功に陥り、逆に恨みや憎しみをかいます。 また人の話を傾聴する「聞き上手」になることは、患者さんとの間や全ての人間関係において重要なことで、信頼されるようになります。 最後は、頑健な肉体でしょう。普段から体を鍛え、自己健康管理に気をつけ、暴飲暴食をつつしみ、早起きを励行し、頑健な身体を維持しなければなりません。「健全な精神は健康な身体に宿る」です。 人生は必ず終わりが来ます。「引き際が重要」と昔から言われています。勿論、体力、情熱そして行動力や勤勉性は、人によって異なります。したがって引き際の年齢は人によって異なりますが、常に優れた後輩を育てることを考慮して、時には引き際を振り返りましょう。


My キャリアパス                 

私は、昭和39年に高知県の私立土佐高等学校を卒業し、昭和45年に京都府立医科大学を卒業し、岡山大学第1外科に入局しました。最初の派遣病院は備前市立備前病院で次が津山中央病院でしたが、岡山大学付属病院でも長い間、お世話になりました。そして生まれ故郷の高知に帰り、現在、高知医療センターの病院長を務めています。私は、「ヒポクラテスの誓い」でいう『医業に携わることを許された者』として、これまで医療の世界に身をおいて41年になりました。これまでの人生は、「人間万事塞翁が馬」と言われるように、「忍耐と我慢」で過ごして来たようにも思えますし、「好き勝手に自由奔放」にやって来たようにも思えます。

この度、医師としてのターニングポイントやキャリアを積むうえで重要なことを、これからの医師の方々に対して、NPO岡山医師研修支援機構ホームページに、不肖私のキャリアの軌跡をしたためる機会をいただきましたので、感謝をこめて記させていただきます。

初めての県外生活と京都府立医科大学学生時代

今をときめく竜馬の国、土佐の高知の片田舎から、古都京都の京都府立医科大学に入学して、初めて大学の医学部や付属病院を見たときは、今まで高知で見ていた幾つかの大きな病院と比較して、そのスケールの大きさに驚かされました。


生まれて初めて親元を離れての下宿生活の不安と期待、浪人同級生や留年上級生が煙草をふかしている姿は本当に信じられない光景でした。大学は医科のみの単科大学でしたので、1学年数は約80名が皆同じ職業になるように教育を受けていました。すると競争より仲間意識が強く生まれ、楽しい日々となりました。大学に入って始めた柔道は6年間一生懸命取り組み、今や五段になりました。その柔道は、私の人生に大きな影響を与え、同級生、先輩、後輩との出会い、さらには他大学の柔道部員との親交は西日本を中心に全国に「おい、おまえ」の仲間をはぐくみ、後日、色々な大学の優秀な医師に恩恵をこうむりました。また私たちは西日本医科学生体育大会では準優勝でしたが、後輩たちは何度も優勝を達成しました。本当に誇るべき後輩たちで、ここに後進指導に賭ける喜びが生まれました。


さらに先輩の京都府立医科大学柔道部の内科医師HO先生の影響は大きく、田舎者の私は素直に先生の指導を受け、従順に柔道の稽古に打ち込みました。一方、HO先生は極めて的確に臨床医の生き方を教えてくれました。「君は柔道で生計を立てるわけではなく、医者になるのだから、怪我をしないように! 卒業したら朝4時に起床して、医学雑誌を読みなさい! すぐに新しい知見を最も知っている医師になるでしょう。また色々な病院に赴任するだろうが、決してその病院に2度と訪れることが出来なくならないように!」と強く言われました。

京都在住中は親戚の者にお世話になりながら、日々新たなる出来事が毎日押し寄せ、あっという間の6年間が流れました。しかし、所詮田舎者の行く末は、実家に帰って、開業して、町医者になるだろうと私も家族も確信していました。ところが昭和41年ごろから全国的な学園紛争が起こり、昭和44年には東京大学入試は中止になり、昭和45年の卒業年には学生運動によって京都府立医科大学は6ヶ月間のロックアウトになりました。当時の研修医制度で40名は京都府立医科大学以外で研修することになり、その制度に反対した私たち数名は大学卒業後、青医連を通じて岡山大学に身を寄せました。しかしもう1つの理由は、岡山大学柔道部のMHとの柔道決着でした。彼とは西日本医科学生体育大会で2回対戦しました。1回目は鹿児島で私が勝ち、2回目は名古屋で私が負けたので、決着をつけるために岡山に行くことを決めたわけです。そして、岡山の彼の妹尾の実家に下宿させていただき、沢山の岡山大学柔道部の連中に紹介されましたが、研修医生活が始まると、彼は高知に移り、私は岡山に残りました。



実はここから、私の医師としてのターニングポイントが始まりました。

医師としてのターニングポイント

私は岡山大学第1外科(田中早苗教授)に昭和45年に入局しました。入局後は先輩や後輩から「忠さん、忠さん」と呼ばれ、みんなに随分可愛がっていただきました。そして京都府立医科大学柔道部の2年下と4年下の後輩が、私を慕って岡山大学第1外科に入局してきました。こうなると私は良き先輩として、京都府立医科大学の名を汚さないようにまた後輩に迷惑をかけないように、真面目にHO先輩の教えを守り、医師として切磋琢磨して修練しました。そして赴任した地方病院(市立備前病院と津山中央病院)では、朝早くに起床して、医学雑誌を読み、臨床実例との相違を勉強しました。そして生まれて初めての学会発表は、何と昭和46年の日本消化器外科学会総会のシンポジストで、「我々の経験せる膵および肝外胆道癌について」でした。本当に無茶なことをしたものです。しかし却ってそれが引き金になり、他人の論文ばかり読んでいる自分から、自分で学会発表する喜びを知り、論文を書くことに目覚めました。英文は今のワープロと異なって古いタイプライターの使用でしたが、新婚当時は新婦が手伝ってくれて楽しい時間でした。論文を書いていると引用の論文を沢山読みますので、参加する学会発表ではディスカッションに大きな助けになりました。


 手術がうまいので評判だった岡山大学第1外科助教授岡島邦夫先生に勧められて、津山中央病院の額田須賀夫先生に、外科の「受身」を教えていただきました。「手袋をつけずに臓器に触ると指の感覚がよくなる。」と言われ、手袋をつけずに手術に臨み、「手術は結紮が下手では上手になりません。」と言われ、自宅で扇風機や机の取っ手に糸がいっぱいになるまで結紮の練習に励みました。「診療報酬制度を学ぶために、自分で撮影した胃透視のレセプトを作りなさい。」と言われ、毎月のレセプトを自分で作りました。


国内留学(札幌医科大学)と国外留学(アメリカUCLA)

研究室では折田薫三先生に師事し、移植免疫学の研究をしました。研究は、HLAや細胞毒試験に関するものでしたが、札幌医科大学胸部外科長谷川恒彦先生に国内留学して、HLAや各種血液細胞(リンパ球や顆粒球など)の細胞毒試験に関する研究を指導していただきました。その時に同じく長谷川先生に師事していたのが岩城裕一先生です。彼は2年後にアメリカUCLAのPI Terasaki Labに留学をしていましたが、その彼からアメリカ留学(ロサンゼルス)を勧められました。金もなく、英語力もなく、また肝腎の医学能力も貧しい私は勿論、お断りしましたが、当時の折田教授に強い後押しを受けて、無謀にも留学することになりました。


しかし、折角、アメリカ留学するのなら、デンバーのコロラド大学の世界で初めて肝臓移植を成功させたThomas Startzl先生のところで肝移植を勉強しようとデンバーに家財道具を運び入れました。しかし、Startzl先生がUCLAにchairmanで異動するというので、ロサンゼルスで岩城先生らと待っていましたが、Startzl先生は、UCLAに来れなくなりました。結局、私はUCLAのPI Terasaki先生のもとで2年間、HLAをはじめ免疫学的寛容に関する研究とROPA(Regional Organ Procurement Association)の1員として留学することになりました。アメリカ留学で感じましたことは、世界で通用するにはレベルの高い医学雑誌の立派な論文が最も重要であることをつくづく教えられました。またノーベル賞を狙う先生方がどんな気持ちで頑張っているのかがよく判り、凄い世界を垣間見た思いでした。


一方、義理を重んじ、人の情けに触れながら生活してみると、全く世界中、人は皆同じであることがわかりました。誠意と勤勉、そしてやさしさと友好、礼儀や行儀などきちんとしていれば、言葉はさほど重要ではなく、誰にでも理解され愛されることが判りました。また初めて開設したUCLA柔道部のインストラクター(資格は四段以上)に招聘されて、沢山の弟子ができました。彼らは休日には、私の自宅に遊びに来て、英語も出来ないのに十分に心が通じ合い楽しく家族5人が新しい世界のロサンゼルス生活を過ごすことが出来ました。また日本に返還される前の沖縄県民や移民でアメリカに渡った多くの日本人やその2世に出会い、親交を深め、その付き合いは今でも延々と続いています。お付き合いした方々は、アメリカは勿論、レバノン、ドイツ、イタリア、ケニア、メキシコ、インド、フランス、韓国や中国など皮膚の色が異なる国の人々です。彼らはUCLAの医師や職員ばかりでなく、柔道の弟子たち、近所のアメリカ人たちとも何の違和感もなく、完全に馴染みました。今まで日本だけの自分が、世界の中に身を置いたことは、自分の中の何かが弾けたように思いました。


Terasaki先生は、時には厳しいですが、普段は寡黙な優しい父親のようなボスでした。私のような者でも理解できるように極めて明快に、HLAをはじめ免疫学的寛容に関する研究を指導していただきました。またTerasaki先生は日本の移植医療に深い関心と厚情をお持ちになり、アメリカで使われない腎臓を太平洋横断して日本に送る大きなプロジェクトを遂行され、ROPAの一員でした岩城先生や私らはこれに協力し、電話の英語応対や日本のマスコミ対応なども含め普通では出来ない仕事をさせていただきました。このようにアメリカ生活によって培った人生観は、「受身の人生」から、「攻撃の人生」に考えを変えるようになりました。


アメリカから帰国して、岡山大学付属病院の外科医として勤務し、岡山大学第1外科教室では学位のインストラクターとしての研究室を任され10数名の学位を指導し、『堀見グループ』として貢献しました。一方、医局長を務めましたが、多い時は30名の医局員が入局したこともありました。


誰もが遭遇する親の病気によって、私は何の躊躇もなく、大学病院医局長の座を捨て高知の片田舎に帰る決断をしました。まだ宇高連絡船が唯一の宇野・高松間の通行手段でしたが、真っ暗になった四国山脈を越えての引越しは、女房・子供たちはさぞかし心細かったでしょう。

故郷土佐の高知に帰る

昭和61年(1986年)高知県立中央病院に赴任して、すぐに行った高知県で最初の生体腎移植の不成功はこたえました。高知県で初の臓器移植ということで、鳴り物入りでしたので、この失敗は「もう私は高知には住めないだろう」と腹をくくり、毎日が暗闇でした。しかし、2例目の腎移植からは通常に成功しましたが、その他の高知で初めての門脈合併切除や肝動脈再建を扱う消化器外科、マイクロサージェリーによる空腸の遊離移植などの種々の術式を医学書から学び、次々と新技術を開発し、また肝移植の手技を使って肝動脈と門脈と肝静脈を遮断して肝切除術を遂行し、またスーパー低位前方直腸切除術など幸運にも種々の新しい技術を成功させました。また義弟TOからは腹部大動脈瘤の手術を全く輸血不要の出血の少ない術式を教えていただき、手術場の看護師を驚かしたものです。これらの手術に対する取り組みは宇和島の泌尿器科医MMの影響が多大にあり、高知市よりさらに田舎で、泌尿器科にとらわれず分野の異なる手術を次々と敢行している報を聞いて、随分競争心をあおられました。


また高知県立中央病院は岡山大学の関連病院でしたので、毎年、いくつかの診療科に研修医が派遣されました。外科の研修は厳しかったと思いますが、HNやWNなど多くの優秀な医師が生まれました。このように優秀な後輩を育てることが、いつしか私の最大の喜びとなり、大きな夢を託す存在となっていきました。一方、高知県立中央病院のある医師たちが、『先生!高知県では、日本1や世界1になることは何の価値もなく、頑張って医学の勉強しても意味がありません。こじんまりと患者さんの紹介をいただけるような医師になることが最も大切ですよ!』という話しを聞いた時は、目の前が真っ暗になりました。これまで私は、『医業に携わることを許された者』として、誇りをもって真摯に医道を貫く精神が最も大事なものと思っていましたので、がっくりと失望と憤怒を感じました。私は何となく孤独感にさいなまれるようになり、『医業に携わることを許された者』としての生きる道を根本的に考えるようになりました。しかし勿論、世の中は『医業に携わることを許された者』として頑張っている医師が沢山いました。特に高知県の外科医療界では、研修会や研究会を通じて知り合った徳島大学や他大学出身の先生方とのお付き合いは、腎臓移植のドナー提供や肝胆膵そして食道癌などの新しい消化器分野に多大なる協力をいただきました。

これまでの長い人生では、義理と人情の板ばさみになることが多々ありました。世間はいつも自分に都合のよい風が吹くわけではありませんでした。失敗と成功の繰り返しでしたが、それまで全く病気らしい病気をしたことがなかった私が、1986年に某医師の誤診によって膀胱がんに対する膀胱全摘を宣告された時は人生の終わりと失望の淵に突き落とされましたが、その後、誤診であったことが判明した時は医師の信用性について憤りを禁じえませんでした。しかし、このような経験から却って、誰にも頼らずに医学専門書で独学をし、国内の諸先生方のご意見を聞きながら全ての疾患の診断と治療の勉強することを始め、膵臓外科に伴う糖尿病、肝臓外科に伴う肝障害、腎移植に伴う腎不全治療や膀胱治療、食道や肺手術に伴う肺炎などを扱う機会の時には本気で夜を徹して勉強しましたので、日常診療で本当に役立ちました。そして後進を育てるために、60歳でメスを置きましたが、平成22年1月に、四国で初めて日本臨床腎移植学会を開催しました。過去の全国日本臨床腎移植学会は多くの場合、大学開催でしたが、一般病院での開催でしたので、余計に日本中に高知の腎移植を知っていただきました。


一方、高知県立中央病院における役職は、平成9年度〜13年度まで副院長、平成14年度から同病院の病院長に就任しました。現在の高知医療センターが開院しました平成17年度1年間のみ副院長を勤め、日本で初めてのPFI事業や全く新たな自治体病院の運営にどっぷりと、はまりました。平成18年度から高知医療センターの病院長を勤め、現在に至り、結局、病院長歴は10年になりました。そして病院長に就任してからは病院管理の論文発表を行いながら高知県医療のアップと維持に全てを投入して、病院運営に身を委ね、現在に至っています。


医師としてキャリアを積む上で最も大切にしていること

私は、『医業に携わることを許された者』として、「苦労は報われる。」と「蒔いた種はまた生える。」をモットーに夢と希望をあきらめずに、日進月歩に変化する医療・医学・医術を畏怖の心を持って、いつも学ばなければならないと考えています。もしその心がなくなれば、『医業に携わってはいけない』とさえ考えています。また全ての患者さんを治すことは不可能ですので、いつも病める人には優しく親切にすることを心がけています。

 また、適材適所の「報告・連絡・相談」を徹底することとしています。それは上司であれ、同僚であれ、患者さんであれ、時には家族であれ、徹底して行い、正直をモットーに決して他人をだまさずに生きるべきと考えています。医師や医療者は患者さんに本当のことを言えないことがありますが、患者家族と相談すれば、どのような時でも正しい上手な言い方が見つかります。また約束をした場合は必ず忘れずに約束をはたし、決して不義理をしないことをモットーにしています。特に頂いた手紙や電子メールに対しては筆まめに早急に返事を書くことです。

これから医師としてキャリアを積む後輩へ

医業は、産業として安定し、職業として人に尊敬される仕事です。それ故に、人間として『医業に携わることを許された者』は特別な仕事として、全生涯を人道のために捧げ、患者の打ち明ける全ての秘密を厳守し、医業の名誉と尊い伝統を保持することなどを誓い、謙虚な向上心をもって常に自分を研鑽し、いわゆる“ヒポクラテスの誓い”を実践しなければなりません。「他人は自分を写す鏡」と言います。医師として、患者さん、医師や看護師そしてコメディカルの同僚、事務の方など多くの方とお付き合いさせていただきましたが、接した全ての人から人生学や人間学を学ぶことが沢山ありました。


大事なことは、目標を設定し、それを目指して紆余曲折して生きることで、初心を忘れずにいると、最後には到達するものと思います。医師としての目標は立派な医師、腕の良い医師、さらに患者に慕われる医師などがあります。


次に大事なことは後進を育てることです。褒められて育った私は人を褒めることによって人を育てます。まず人が喜ぶ姿が自分の喜びと感じるようになり、友情や愛情は段々、徐々に量と質と共に増え、醸成され発育成長します。

また嫉妬と傲慢を排除し、忍耐と謙虚で生きるべきでしょう。嫉妬したり、腹を立てたりすると、冷静な判断が失われ、焦ったり興奮すると、全てに失敗したり不成功に陥り、恨みや憎しみをかいます。


また職場の同僚やコメディカルの方々、そして開業医や他病院の先生方に可愛がっていただくように努力すべきです。それは人の話を傾聴する『聞き上手』になり、そして適材適所における適切な「報告・連絡・相談」の徹底によって必ず出来ます。また決して嘘をつかず、他人をだまさずに生きることは、患者さんにも一般の人間関係においても心底から信頼されるようになり、是非、心がけるといいでしょう。


そして、長い医師生活では、人間関係や医療関係でつらく、苦しいことも沢山あります。医療界では出身大学も重要ですが、出身大学以外の医師たちと交流をはかり、お互いに認め合い理解し合うことはさらに重要です。他大学の先生を大事にすることは、他大学の先生から大事にされることになり、最後は持ちつ持たれつの人生が待っているものです。私は常々「人間関係は3分の1」理論を唱えています。周りの人の3分の1は反対勢力であり、3分の1は味方であり、3分の1は中立であるとしています。だから周りの全ての方々が味方になることはあり得ないとして、常に自分の味方を信じて、人を裏切らずに、人の役に立つことを常に考えて誠意と素直さをもって頑張りましょう。

最後は、頑健な肉体でしょう。普段から体を鍛えて、自己健康管理に気をつけて患者になった気持ちで、頑健な身体を維持しなければなりません。「健全な精神は健康な身体に宿る」です。


60歳を越えてから

人生は必ず終わりが来ます。「引き際が重要」とは昔から言われています。勿論、体力、情熱そして行動力や勤勉性は、人によって異なります。多くの場合、後輩は自分より優れています。しかし、それに気付かずに、自分がいないと回らないと勘違いをする悲劇に陥ります。私は、60歳で外科医としてメスを置きました。幸い、私は病院長という責任ある役職をいただきましたので、メスを置けたと思いますが、「人生万事塞翁が馬」を忘れず、ダーウィンの進化論は全てに通じ、『変化は進化である』を座右の銘にして、「次は何をすべきか」を決めています。

そのような中で、最近は、休日には古民家に再生した高知県佐川町の実家で、畑を耕し野菜を作り、平日には病院長として医療管理と総合診療に身を置き、残された人生を静かに暮らす毎日です。

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