人生の岐路で迷った時には積極的な進路、負担が大きな道を選ばれることをお薦めする
1973 鹿児島大学医学部卒業
岡山大学附属病院医員研修医
(岡山大学医学部第一内科入局)
1974 済生会今治病院内科勤務
1976 大阪市立大学医学部第一生化学教室研究生1977 愛媛大学医学部第三内科助手
1985 愛媛大学医学部附属病院第三内科講師
1986 ロンドン大学Royal Free Hospital
(HC Thomas教授)に留学
1994 愛媛大学医学部第三内科教授
The 44 th Annual Meeting of the Japan Society of Hepatology held in 2008 The 12th Annual Meeting of the Japan Diagnostic and Nutrition Society 2009 The 46 th Annual Meeting of the Japanese Society of Gastrointestinal Immunity
なぜ医学部へ 父の一言「社交下手は医師がよいのでは
高校2年までは、当時、希望者が多い工学部希望であった。高校2年の夏休み前に、進路相談に行った父親から社交下手は会社勤めよりも医者の方が良いと言われた。確かに社交下手であり、大学生活が6年あるのも私には魅力であった。それではと大きく進路を替えたが、国立大学医学部を目指すとなると大変だと気付いたのは高校3年からでした。医学部受験者がほとんどない高校で、時間的にも準備不足のまま、一期校として岡山大を受けましたが見事失敗した。二期校は受験したところ、試験問題が私にマッチしたのか、合格の通知を受けて鹿児島大に入りました。開放的な南国の地で多くの友達と遊び、性格も明るく変わり、私にはマッチしていた。
岡山へ
鹿児島に残るか、岡山大に入局しいずれ愛媛に帰るかの選択、五分五分の選択となり、迷ったが、最後は母の涙に従った。自分が迷ったのだから、後ろは振り向くまいと決心した。岡山大の第一内科に四国がんセンターの石光鉄三郎先生にご紹介いただき、入局した。大学が違うとすべての価値観が違うことを思い知らされた。体制がしっかりしていて、それぞれの分野に全国をリードするチーフが居ることの素晴らしさを知った。
人生を決めた教育主張病院
出張先は今治済生会病院であった。ここで、梅田院長との出会いがあった。私が加わって内科が3名、総医師数5名であった。院長は38歳と若く、表面は豪快で元気に溢れた方ですが、細やかな神経をお持ちで、何と言っても東大卒としてのコンセプトをお持ちでした。そのコンセプトは信頼した人への価値判断は変更されないことと、誰もが賞賛する学問を尊重される姿勢です。以後、これまで私の人生の節目節目で、大きなご示唆をいただきました。 医師はすべて若く毎夜のように深夜まで麻雀をしながら病院に居た。診療の上でも、信じられないような変わった患者を多く診させて頂き、軟部好酸球性肉芽腫症、インスリン自己免疫症候群など症例報告も書かせていただいた。 2年目には、循環器専門病院に見学に行ってCCUを立ち上げた。2年の研修が終わる半年前の秋に、岡山に帰るか、新設大学で新たに立ち上げる内科に参加するかの選択がきた。梅田院長から、研究者としてチャンスのある愛媛大学を選ぶべきであると言われた。研究生活など全く知らない私を心配しての一言と、今でも嬉しく思っています。太田前教授への入局挨拶の後、研究テーマは肝炎ウイルスか免疫を選んでほしいと言われた。学生時代から興味のあった免疫を選び大阪に国内留学した。
医学部の創設に携わって
1977年春に愛媛大学に移動した。患者さんがいない。症例の蓄積がない。医師も、整った実験室もない状態の医学部の創設に教官として参加した。学位のない助手などとんでもない時代であったが、私一人は学位がなく、付け足しの助手としてスタートした。ないないづくしのなかで、教室員全員参加のチームワークと夢のみは眼前にあった。つらさはあったが暗さがない世界は意外と住みやすかった。肝臓の免疫をするのは私1名で、研究は自由で楽しかった。教授はとにかく全国学会に演題、特に主題に出すことを強要した。 2年過ぎた1979年、31歳の時から教授直属の研究と診療グループのチーフとなってしまった。自分の学位論文が終わっていない時期から、一期生の大学院生を指導する立場になっていた。太田前教授は日本の肝臓学会のリーダーのおひとりであり、いわゆる日の当たる立場にはあったが、新設大学では共同研究者がきわめて少ない為に、常に学会主題の演題作りのためにトピックスを追わなければならない辛さがあった。自分のライフワークをじっくりとしたかった。ただ、若い頃から教官となり教授に従い班会議や学会長老の世界に居たおかげで、学会レベルで世界や日本全体を見る機会に恵まれた。
医学部の創設に携わって
私が入局した時の小坂淳夫岡山大学第一内科元教授と私の恩師である太田康幸前教授の提唱した濾胞性肝炎の研究中に、若い女医さんが慢性肝炎のリンパ濾胞にある濾胞性樹状細胞にHBs抗原が染まることを発見した。それが樹状細胞との出会いでした。偶然の機会で、研究を開始したわけで、一種のSerendipityと言えます。以後、臨床医が全く研究を始めていない1987年から樹状細胞の研究を開始した。周囲には誰も研究していない細胞を対象に、マウス、ヒトの免疫機能の研究を展開していった。驚いたことは、肝臓内の樹状細胞をランゲルハンス細胞として岡山大学第一内科の戸部先生を中心とした先輩方が世界で最初に電顕で観察し、英文論文で発表されていたことでした。1992年にヒト末梢血で大量に樹状細胞が採取できる技術が開発されると、多くの研究者が研究を開始し、樹状細胞は医学全体のトピックスとなった。共同研究者の少ない研究室としては競争を避ける意味でも癌を避け、ウイルス肝炎の免疫治療の開発を進め、私のライフワークとなった。現在、肝細胞癌とB型肝炎の治療ワクチンを海外との共同研究で勧めている。また、抑制性樹状細胞による自己免疫疾患の治療法の開発行っている。その1つに新しく発見し特許を取得した炎症性腸疾患の抗原を用いた治療法の開発は精力的に進めている。
海外留学と恩師の死
38歳の時に偶然の機会で、ロンドン大学のHC Thomas教授のところに留学した。その時点での世界の肝免疫研究のトップランナーのところで実験した体験と、異文化に触れた体験は貴重でした。前教授が現役のまま亡くなれ、教授になることを意図して準備したことは全くなかった私が立候補せざるを得なかった。その時にある医学部幹部の教授が言われた「人生の中で自分の人生の選択を自分で決められない状況による結果は甘んじて受け入れなければならないし、それが最良の人生の進路となる」をいつも胸の奥において講座運営を行ってきた。人生において、自分の人生の進路を委ねて、ある人生の歩みのすべてを無にする覚悟(実際には大学生活を失うのみであるが)がある期間できたことは常に心を平穏にできる礎となった。
医学部創りと良医の育成
誰しも研修や研究の場の選択で条件の良いところを目指すことは自然のことと理解される。しかし、振り返ってみれば、良い条件と思えた環境が必ずしも後の人生で良い結果をもたらすとは限らず、むしろ悪いと噂された環境こそ最適であったと後に感じたことは幾度となくある。人生の岐路で迷った時には積極的な進路、負担が大きな道を選ばれることをお薦めする。その方が良かったと思うし、後悔がない。また、条件が悪くとも、自分自身で責任持てる立場や活動できる環境での体験も重要です。トップとして組織全体を見渡せる体験を、是非若くやり直しができる時期に体験してほしいものです。その意味で、小さな病院や実験施設などの経験も重要です。 出会いを大切にしろと言われても交際不得手ではどうするか、私は悩みましたが、愚直であればよいとつくづく思います。若いときに交際上手になろうとしなくてもよい。重要なのは診療や研究で自分の仕事を確立しておかれることです。医師の世界で誰しも許容してもらえるものは、学問であり研究であり、科学的でまじめな診療です。それを心がけておれば、岡山大学のような伝統校の心ある上司はきちんと観ています。 医師になってから出会いのあった先生方に支えられながらどうにか歩んできた人生です。医師としての経験も、研究も振り返れば、教室の先輩の先生方の足跡の上に歩んできたのみとの印象です。長い伝統校こそ、その蓄積が豊にあります。 人にはそれぞれの、能力、運命と役割があり、その中の人生で歩んできて獲得してきたものはすべて後続者に譲る日が必ず来ます。人生に限りが在るわけですから、着実に、一日一生の言葉のとおり、遠きを思い、近きに尽くすことを望みます。
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