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キャリアの軌跡 藤田 次郎

臨床と研究を両輪とすることで医療は深まる



1981 岡山大学医学部卒業

1981 国家公務員共済組合連合会虎の門病院

    内科レジデント

1983 国立がんセンター病院内科レジデント1985 米国ネブラスカ医科大学呼吸器内科留学1987 香川医科大学医学部附属病院第一内科助手2001 香川医科大学附属病院第一内科講師

2005 琉球大学大学院 感染症・呼吸器・消化器

内科学(第一内科)教授



医師としてのターニングポイントは

母が開業医でした。診察室に入るとプロの顔になる母もりりしかったし、そこにはシャウカステンや顕微鏡があり、壁には現像されたレントゲン写真がぶら下がっていました。私は呼吸器疾患の画像診断が得意で、病理も好きなのですが、それも子供の頃に見た診察室の光景から、医師はレントゲン写真を見つめ、顕微鏡をのぞいて診断するものだというイメージが刷り込まれているからかもしれません。

医師としての方向性は、岡山大学での教養時代に『がん回廊の朝』(柳田邦男著)を読んでいたく感激し、がんの診療、および研究に従事したい、国立がんセンターで学びたいと思ったときに定まったのだと思います。募集要項を取り寄せると、卒後2年間の研修経験が条件とあったので、それではと卒後研修に定評のある病院を調べ、虎の門病院と国立病院医療センター(現 国立国際医療センター)を受験することにしました。大学受験がそうであったように、目標が定まると集中力を発揮して突き進む性格。バスケット部も辞め、4年生からは生活態度を一変。本当によく勉強しました。

岡山大学卒業後、入野昭三教授を慕って香川医科大学第一内科に入局

入野先生から「免疫抑制患者における呼吸器感染症」というテーマをいただいた。

岡山大学卒業時に岡山大学第二内科から香川医科大学第一内科の教授に就任された入野昭三教授の主宰される医局に入局させていただいたことが、私のターニングポイントであり、このことが虎の門病院、国立がんセンター、および米国での研修を可能にしたと思っています。








岡山大学卒業後、入野昭三教授を慕って香川医科大学第一内科に入局 入野先生から「免疫抑制患者における呼吸器感染症」というテーマをいただいた。


さてレジデント試験には両方とも合格。霞が関への憧れから虎の門病院を選び、臨床研修が始まりました。しかし、虎の門の研修はまさに“地獄”。その後、どんなに厳しい状況になっても「あのときよりはましだ」と思えるほどつらい毎日でした。最初の配属は血液病棟。仕事は抗がん剤の点滴。普通の点滴や採血もうまくできないのに、指からの血管確保や骨髄穿刺などできるわけがありません。下手だから朝5時に起きて病棟に行く。仕事が終わっても夜中の12時まで勉強する。でも明日のことを考えたら眠れない。そんな日が休みなく3カ月続きました。国家試験に合格し、何十倍というレジデント試験を突破しても、現場では何もできない。頭ではこういう検査をしてこういう薬を処方すればいいとわかっていても、それをする術がない。プライドはずたずた。自分には医師としての能力がないのだと心底落ち込みました。しかし、他の科を回り、2年目に再度血液病棟に戻ると、あれだけ悩み苦しんだことが嘘のようにできるのです。そこで思ったのは、“手技”というマニュアル的な技術は1年である程度マスターできるんだということ。しかし医学はもっと奥深いものであるはず。“なぜそうなるのか”という本質的な疑問へのアプローチをしたいという思いが強くなりました。


医師としてキャリアを積む上で最も大切にしていることは

臨床医ですから、日々の診療が最も重要であることは言うまでもありません。しかしその中で得た新知見を論文にまとめることを大切にしています。

虎の門病院での2年間で症例報告を1つ書きました。このことを通して論文を書くことで診療にも深みが増すのではないかと感じるようになりもっと論文を書きたいと思うようになりました。


前述した医学の本質的な疑問へのアプローチ、および論文を書くための方法やスタイルをたたき込まれたのが、念願であった国立がんセンター。そこにはパイオニア精神溢れた医師が集まり、現状を変えてやろうという気概に満ちていました。最も影響を受けたのは西條長宏先生です。私はがんセンター時代、13カ月で15の論文を書きましたが、これは先生が「これを書け」「あれは書けたか」と常にプレッシャーをかけ続けてくれたからです。おかげで寸暇を惜しんで論文を書く習慣が身に付きました。論文を書くということは、その何倍も論文を読んで勉強するということ。患者さんに何か変化があっても、すぐに原因を想像できる感覚が磨かれ、診療にも深みや厚みといったものが増していったと思います。両病院でのレジデントは本当に刺激が多く、がむしゃらに勉強し、また多くの経験ができた時期でした。熱かった時代の経験や教えはその後の人生における羅針盤となりました。


その後、郷里の医療に貢献すべく香川医科大学(現 香川大学)に。呼吸器内科スタッフが2人しかいなかったことから、がん、感染症、喘息、間質性肺炎、肺気腫など呼吸器疾患全般を診なければならない状況でしたが、全てを診たい私にとってそれは望むところでした。レジデント時代に極めた時間の使い方で、多忙ながらもやりがいをもって臨床、研究、そして教育に力を注ぎました。同時に、大学の枠にとらわれず、地元臨床医が集まる呼吸器疾患同好会に積極的に出席しました。それを足がかりに中四国での人的ネットワークを広げることにも熱心に取り組みました。臨床現場からテーマを拾い出し、ネットワークを通じて症例を集積、同時に病理医や外科医、放射線科医、基礎医学者らの協力を得て新しい疾患概念を確立するという研究手法で業績を重ねられるようになったのは、まさしくその成果です。臨床と研究と教育を相互に関連させながら、バランスを取っていい方向に回す。あるいは大きなネットワークをつくり、地域や専門の壁を越えて協力しながら1つの成果を出していく。そんなスタイルを自分のものにしていった香川大学の17年間は第2の青春といえるかもしれません。実は、がん、感染症、および間質性肺炎の分野での3冠を目指し、肺がんの研究でACCP日本部会賞を、非結核性抗酸菌症の研究で、日本結核病学会の今村賞を受賞しました。しかし残念ながら間質性肺炎の分野での学会賞は逃しました。







国立がんセンター呼吸器内科での学会発表での写真。左から2番目が西條長宏先生、この先生の出会いで論文を書くことの楽しさを学んだ。















ACCP日本部会賞受賞の新聞記事
















結核病学会賞受賞の新聞記事



これから医師としてキャリアを積む後輩へのアドバイス

私の経験から言えるのは、ライフスタイルは20代でほぼ決まってしまうということ。そのとき、苦労して挫折したほうが人は強くなるということ。臨床と研究を両輪とすることで医療は深まるということ。そして、人を尊敬すれば人の輪が広がるということです。琉球大学の教授となった今、古きよき米国の医療と、自分より人の幸せを優先する琉球文化が融合した沖縄の素晴らしい医療を全国に発信することに情熱を注いでいますが、これまでの経験から培ってきた私の基本スタンスは変わることはありません。


沖縄での感染症診療を全国に発信していることが評価され、2010年10月号のドクターズマガジンに紹介された。

人の輪を形成する際に最も大切なのが、大学の医局、および同門です。私にとっては、岡山大学の同級生に加えて、虎の門病院、がんセンター時代の仲間、香川大学医学部第一内科の同門、および琉球大学大学院 感染症・呼吸器・消化器内科学(第一内科)の同門など、多くの先生方とのネットワークが財産です。医師人生を振り返って残念に思うことは、岡山大学の内科医局の同門になれなかったことです。それでもこのような機会を与えてくださった岡山大学の先輩方に心から感謝いたします。