あるがままを受け入れる
1967 岡山大学医学部 卒業
岡山大学でインターン
1968 岡山大学第一内科 入局
岡山大学大学院入学(癌研生化学)
1971 アメリカインディアナ大学 留学
1973 岡山大学大学院卒業
川崎医科大学内科レジデント
1976 川崎医科大学内科 講師
1980 川崎医科大学内科 助教授
1994 川崎医科大学内科 教授
2007 同上 定年退職
川崎医療福祉大学教授 現在に至る
医師としてのターニングポイントは
もともと手先が不器用であることを自覚していたので外科系は無理と考え、内科のうち14名の同学年が入った岡山大学小坂内科に入局させていただいた。 当時大学院ボイコットの嵐の中で、基礎系だけはOKという状況。 また、ある先輩からまず基礎をしっかりやってから臨床に行くのはどうかとのお勧めもあり、癌研生化学部門(小田琢三教授)に大学院生として2年間の予定で入れていただいた。2年でなんとか学位論文も完成したが、研究も中途半端な気持ちがあり、そのまま基礎にとどまりSV40ウイルスを用いてDNA抽出や電顕、動物実験、組織培養などを学んだ。 4年生の時に先輩のご配慮でアメリカに1年間留学の機会に恵まれた。 最初の計画とは大幅に違って、基礎に5年間もお世話になった。基礎の教室は理学部などからのスタッフで占められ、研究で一生やってゆける能力もないし、臨床の世界とはまったく違うある種の重苦しい雰囲気があり、大学院卒業後は迷わず臨床に帰る道を選択した。丁度その時に川崎医大が新設されレジデントの募集があり、臨床を一からやり直すためには新たな環境で勉強するのもと考え、研修医としての生活を開始した。内科各科が臓器別になっておりそれぞれ8部門に教授がおられ、そこを2ヶ月おきにローテーションするシステムであった。 第一のターニングポイントは基礎の大学院にはいったこと。 第二は川崎医大に移ったことであった。 小坂内科の中心であった肝臓病学になんとなく親しみがもてたことから、2年目には消化器1内科(平野寛教授)にお世話になり肝胆膵の病気に取り組んだ。3人だけの医局員であったため、多くの患者を独り占めに近い状態で、大変恵まれた環境であった。基礎で学んだ電顕、生化学の手技を使って、患者血清を集めB型肝炎ウイルスの形態を撮影したり、ICG排泄異常症に遭遇した。症例報告なども学会誌に多く執筆できて思う存分臨床を楽しめた。3年後には講師、さらに4年後には助教授(38歳)にさせていただいた。 14年間助教授を務め、平成6年から13年間肝胆膵内科教授として川崎医大で定年を迎えることができた。
医師としてキャリアを積む上で最も大切にしていることは
小坂淳夫教授の穏やかな、周りの人を包み込むような大きな包容力をもったお人柄と全国有数の大肝臓内科を築かれた実力、謦咳に接するだけで大きなパワーをいただけるような魅力ある大先生。少しだけでも小坂教授の大きな人格に近づけるように過ごしたいとの気持ちを大切にしたいと思っていることである。 また平野教授からは挨拶「おはようございます」と「10分前には来ること」の社会人としての基本をいまも大切に守りたいとかんがえている。 診療においてはオスラーの教え「listen to the patient」に従い究極的には「患者さんの満足がすべて」との気持ちを失わないこと。
これから医師としてキャリアを積む後輩へのアドバイス
だれでも医師となってそれぞれ環境も違うのは当たり前。 大きな目標を設定して、その時その時の状況にあわせて自分の気持ちに従い、一生懸命取り組むこと。 患者さんに虚心に向き合う中から新しい発見も生まれる。
日本消化器病学会財団評議員 日本肝臓学会評議員 日本内科学会評議員 日本高齢消化器医学会議常任理事 日本超音波医学会専門医 研究分野 ・「肝胆膵の臨床」 ・ICG排泄異常症 ・肝炎に対するSNMC100cc ・自己免疫性肝炎に対するazathioprine単独療法 ・肝硬変に伴うこむら返りのタウリン治療 ・スピロノラクトン誘発女性化乳房のトリテレンによる治療 ・肝癌の局所治療(エタノール注入療法,ラジオ波治療の併用) ・肝癌長期生存の工夫 主催学会 1. 第5回 日本高齢消化器医学会議 H15.1.25 2. 第90回 日本内科学会中国地方会 H16.5.29 3. 第83回 日本消化器学会中国支部例会 H17.6.25
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