キャリアの軌跡 桑門 克治

偉人じゃなくても大丈夫


1984 京都大学医学部卒業

    福井県立病院小児科

1985 京都大学医学部附属病院小児科

1986 大和高田市立病院小児科

1990 京都大学医学部大学院

1994 島根県立中央病院小児科

2001 倉敷中央病院小児科








小児科を選ぶまでの事ども    

実家(大分県佐伯市)の寺が保育園、幼稚園を営んでいた事、叔父が小児科医だった事や、ポリクリの時に小児病棟の廊下で若手医師が子供にとうせんぼをして遊んでいるのを見て、なんとなく波長が合うかなと思っていました。決めたのは、皮膚科の実習で4-5ヵ月くらいの乳児と目があってニコニコッと笑ってくれた時です。小児科医になって、人見知りをするのは6ヵ月になってから、と知りましたが。


少し個人歴を語ると、わけあって乳幼児期は語りかけを受ける機会が少ない環境だったためか空想癖の強く言葉をあやつるのが苦手な子でした。小学生の時に席についておれずに歩き回った覚えがありますから,今ならADHDを疑われるところです。衝動性や困り感はなかったので、ボーッとしつつ落ち着きのない変わった子だったに過ぎませんが。空想癖はその後の算数好きにつながったし、小児科医になって乳児健診の時に「たくさん話しかけてあげてね。テレビやビデオはつけずに。」とお話ししたり、よりよい電子カルテのイメージをメーカーに要望する現在の役回りにもつながっているので、欠点は持ち味にもなります。ただし、社会性は欠落したままでしたから、今のマッチング制度の面接では低い評価しかえられない医学生だったでしょう。でも、とりあえず27年間職を失っていないので(たぶん)大丈夫。
















Turning Point のようなもの 卒後1年目

4月生まれで一浪したので、昭和59年6月に福井県立病院小児科で医師として社会に出た時には26歳になっていました。コミュニケーション能力の低い者にとって、初めて会ったご家族に挨拶し話を聞き病状説明するというのは、とてつもなく高いハードルでありました。しかも、お年寄りの福井弁は半分くらいしか理解できませんから、必死でしたね。 そんな時に、「君は説明が上手だわ。知識は足りないけど。」と6年目の自治医大一期生の野坂先生がほめてくれたのには救われた思いがしました。保護者の方から、気が弱いのを「優しそう」とか、すぐに反応できないのを「物に動じないんですね」などと勘違いして貰えたことで、少しずつ社会の仲間入りができた気がしています。髄液採取と骨髄穿刺以外は看護婦さんに指導を受けました。ようやく血管確保ができるようになった秋の初当直の時には、痙攣重積の救急車や産科病棟から仮死出生の立ち会い要請などがあり、次々に上級医を呼び出しました。春木部長の回診につくと、謎の病態が一転明らかになり驚嘆しました。近頃はロールモデルなどというカタカナ言葉が流りですが、お手本にするには高すぎる雲の上の小児科医でした。 1年間の研修が終わる頃になって、NICUのベテラン・ナースから「先生も少しは赤ちゃんの事がわかるようになったみたいだね。」と言われたのがうれしく、この先やっていけそうかな、と思いましたが、後年、春木先生からは「最初の半年は、こいつ大丈夫かと思っていた。」と言われました。「一度は試験管を振る経験をした方がよい」というアドバイスをもらったのもこの年でした。2年目に大学病院に戻って1年後輩から頼られるという初めての経験をしましたが、すぐに立場は同等になりました。この時に「経験値の0と1はずいぶん違うけれども1と2はそれほど変わらない。」ことを学びました。当院で研修している人たちに尋ねても「初めの半年は自分が何をやっているのかよくわかりませんでした。一つ上の人たちが神様に見えました。」と言います。今は「3年目と27年目もそれほど変わらない。27年目が劣る事もしばしばある。」ことを私は知っています。 だから、1年目に自信をもてなくても(たぶん)大丈夫。


後輩へのメッセージ                 

私自身の職歴は、大枠は関連病院・大学院・関連病院という医局に属した旧世代の典型で、「ゴルフと勉強ができるところ」「後期研修のつもりで学べるところ」「小児腎臓病を学べるところ」などと、その時々に希望して調整してもらっただけです。

小児科を希望する医学生にお話ししているのは、「初期研修の2年間は医師としての幅広い対応能力を身につけるチャンスだから小児科以外のいろんな科を回って『何でも食べる子、丈夫な子』になっておいで。後期研修で小児科全般の力をつけたあとは、何か得意分野をもっておくと楽しいかもしれない。研究者にならなくても実験中心の生活を経験するのは思考の幅をひろげるのによいでしょう。10年目くらいになったら後輩の指導を含めて、いろんな貢献ができる医師になってください。」といった内容です。自分の事は棚に上げて。「倉敷中央病院は食べ物が豊富なので今のうちに胃袋を強くしておくといいですね。消化不良にならないように。私が学生だったら、もう少しゆっくり学べるところを選ぶでしょう。胃袋が小さいので。」とも伝えています。


小児科の後期研修に来た人には、「『教えることは学ぶこと』といって、講義を受ける側になると翌週には5%しか残らないけれど、教える側になると知識や知恵が蓄えられるから、どんどん教えてください。後輩だけじゃなくて同僚や先輩にも」とお話しています。それと、「20-30年後には、私のような『こどもしか診れない小児科専門医』は社会のニーズに応えられなくなると思うよ。得意分野(小児科およびsubspeciality)をもった総合診療能力の高い医者というのが良いんじゃないかな。日本の専門医がやっていることの7割は非専門医でできるはず、という話もあるし、そういう時代になれば必要な専門医数はきっとすごく少ないでしょう。」ともささやいています。それから、私は京都弁、奈良弁、大阪弁(北部・南部)、神戸弁の聞き分けと福井弁、出雲弁の聞き取りができますが、話す事はできません。英語もからっきし苦手です。「たくさん栄養を摂るには英語力を身につけておいた方が良いよ。」とも伝えています。


私が1年目の4月に受けた新入局者オリエンテーションの冒頭で「オーベンのいうことは信用するな」と言い渡されました。ずいぶんと乱暴な言い方ですが、何でも鵜呑みにするな、ということだったのでしょう。唯一覚えている言葉です。カリスマ指導医とか名医とか、今のマスメディアの取り上げ方は耳目をひく瓦版的、ワイドショー的な偏りがありますから、惑わされてはいけません。自分が見たことや一次情報から納得できる答えを探しましょう。社会や職場のニーズは何か、あなたが指導医なら研修医のニーズは何か、そして自分にできる事は何か、少しだけ頑張ればできそうな事は何か、といったことを時おり考えて、目の前のことに取り組んでいればいいんじゃないかと思っています。

面倒見の良い先輩になれたら上出来です。

自らがお手本にならなくてはと焦る必要はありません。当院の副院長だった馬場先生は「昔は、先輩は乗り越える対象であって目標にしてはいけないと教わった。ロールモデルを持つ事にこだわると、その人以上にはなれない。」と、おっしゃっていました。


私は、2001年に当院に来た時に、得意分野を持ち、小児科全般の素養があり、面倒見の良い医師がそろっているのをみて、自分は同じようにはできないな、と思いました。それで、忙しい同僚を補助できるように院内・院外の雑用のようなものを引き受けています。「できる事を続けていたら何かの役には立っていると思いたい」のが私の心境です。客観的評価はさておき。女性医師が後輩の女性医師に「子育て中にも少しでも良いから仕事に携わっておいた方がよい」とアドバイスしたというのにも共感できます。


キャリア形成にしても、ビジネス界の成功者ですら計画性や努力がキャリアに結びついたのは2割程度で、残り8割は「偶然」だそうですから、先々の事に固執しすぎると、かえって出会いの幅を狭めることになるのかもしれません。社会のニーズは何か、自分にできる事は何か、少しだけ頑張ればできそうな事は何か、を時おり考えて、いろんな事に興味を持つよう、お勧めします。


変わった先輩の雑文を最後まで読み終えたあなたは、少なくとも傾聴の態度を示す事ができる人物なので(きっと)大丈夫。


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