Where there is a will, there is a way.
1975年 岡山大学医学部医学科 卒業
1983年 同大学医学部附属病院 助手
1984年 アメリカ・ノースウエスタン
大学医学部
1990年 岡山大学医学部 助手
1994年 同 助教授
1996年 同 教授
2002年 岡山大学医学部附属病院
副病院長
2009年 岡山大学大学院医歯薬学総合
研究科 研究科長
2011年 岡山大学 理事(病院担当)・
岡山大学 病院長
2017年 岡山大学長(第14代)
Challengeをモットーに突き進んできた学生・研修医時代
大学に進学するよりもアメリカに行きたかった高校生時代
私は高校生の時は大学に進学するよりもアメリカへ行きたかった。我が家には留学できる程の経済的なゆとりはとてもなかった。幸いAFSであれば毎月の自分の小遣い程度のみ賄えば良いとの情報を得た。そこで、思い切ってAFSの留学の試験を受けた。最初は岡山、次に広島、最後は東京の文部省であった。未だに建物は残っており、前を通る度に、受験のことを思い出す。当時私はとてもおとなしく内気な性格でクラスでは自分から発言することはまず無かった。最終試験は集団面接で黙っていたら落ちるなと判断して、グループ討議で発言した。ふだん全く喋らないのでうまく意見が言えるはずは無く、落ちたと諦めていた。運よく合格した。
恵まれたホームステイ先
高校3年の夏に渡米した。ペンシルベニアのフィラデルフィアからさほど遠くないEmmausという町のHarries家に1年間お世話になった。実の子と同様に可愛がってくれアメリカの両親には本当に感謝している。高校にはハリスさんの3人のお子さんと一緒に通った。高校4年(日本の3年に相当)に編入となり、9月から授業が始まった。最初悔しい思いをしたのは冗談が理解できず皆と一緒に笑えない事だった。12月になりラジオのバスケット放送が理解でき、英語にかなり慣れたと思った。一番苦労したのはアメリカ史だった。
ホームステイ先でお世話になったハリスさん一家と(左2番目)
留学中に医師になろうと決意
留学中に父が病死した。当時は帰国できるような状況では無かった。この時に医師になろうと決心した。アメリカの両親に相談すると、私は人の言うことをしっかり聴くので医者にむいていると医師になるように勧めてくれた。アメリカに行くまでは慎重でpessimistic であったが、1年暮らしている内にoptimisticな性格に変わったと思う。アメリカ生活はとても楽しく日本には帰りたくなかったが規則でやむなく帰国した。1年間日本語を全く使わないと、直ぐに出てくるのは英語で日本語を話すのに苦労した。
帰国したが大学受験に失敗
帰国後2学期から大安寺高校3年に編入した。留学した時は直ぐにアメリカに溶け込めたが、帰国してからは充分知っているはずの日本に適応するのに苦労した。アメリカと日本との違いを思い知らされた。数学では赤点を貰ったが気楽に構えていた。あっと言う間に受験となったが、医学部は落ちてしまった。落ちるとは思ってもいなかったのでショックであった。
浪人生活もまた楽しからずや
それまで挫折したことは無かったが、非常に良い経験となった。本気で勉強すると楽しいものである。英語で満点を取れないのは国語力が無い事を悟り国語を勉強すると、古典・古文を読むのが楽しくなった。大安寺高校の補習科に行ったがここでも友達ができた。アメリカに行き1年、浪人して2年学年が遅れた。浪人時代に成人式を迎えたのは屈辱的であった。しかし同級生が3学年にまたがっており、同級生が3倍というのは私の最も大きな財産である。
世の中は全く予期せぬ事が突然起きる
受験の準備をしていると予期せぬ事態になった。昭和44年は学園紛争のピークで多くの大学がバリケードで全共闘、民青等の学生のグループに封鎖され、授業が出来ない。願書を出す直前に東京大学の試験が行われないと突然発表になった。幸い岡山大学は受験があったが、岡山大学では試験ができない。医学部の試験は私の母校の大安寺高校で受験があった。数学が全くできなかったので2浪を覚悟していたが、これまた運よく合格していた。
塾での教師が良い経験に
学資は自分で稼がなくてはならない。マキノカルチャースクールを立ち上げ小学生から高校生までの塾、英会話、ピアノ、お花、お茶と槇野家一族・郎党総動員で分担し、足らぬは友人にも手伝って貰った。私は毎日小学生から高校生まで幅広く教えた。きつく叱ると生徒は直ぐに来なくなった。叱るにも愛情が必要なことを悟った。
塾に割く時間が多かったので、学業の方は疎かになっていたが、良き同級生、特に同じグループのGH班の皆に助けられて進級できた。
学生時代の授業で将来の進路を決めた
医学部の腎臓の太田助教授(当時)の授業で大変不思議に思ったのは、2次性ネフローゼ症候群の原疾患としてSLEと糖尿病が挙げられていたことだ。SLEは免疫複合体の沈着により糸球体障害が惹起され、蛋白尿が出るのは理解できるが、高血糖でなぜ糸球体障害が起こるのか理解できなかった。当時の第三内科の大藤教授の免疫の講義も面白く、若い先生方が溌剌とされており、第三内科に入局した。今でも糖尿病性腎症をlife workとしている。
研修病院はクジ引きで決定
当時の医師国家試験は4月初めにあった。国試の後2週間休んで、4月の終わり頃から、第三内科の研修が始まった。オーベンの先生の指導のもと病棟勤務だ。研修先は坂出市立病院とクジ引きできまった。9月1日から赴任となった。前任者の中山雅都先生から1週間申し送りを受けた。中山先生はとても優秀でactiveな先生で40人近くの病棟の患者さんを受け持たれておられた。そのまま引き継がせて頂いた。
総ての科の先生が指導医に 指導医は院長の岡説也先生だ。院長なのでお忙しくて病棟には覘いて貰えない。病棟の約1割は重症患者さんだ。週に一泊二日で第三内科から仁科先生が来られる。この日に1週間の疑問を相談した。仁科先生がおられない日に処置などで困った時は同じ病棟の先生に助けて貰った。整形外科の駒井先生がカットダウウンをしてくださった。気胸の患者さんが反対側にも気胸をおこされ、チアノーゼとなった、外科の先生を呼ぶと大家先生と山田先生の二人が駆けつけてくださり危機一髪で助かった。挿管は耳鼻科の岸本先生にお願いした。患者は主治医制なので夜でも患者さんの容体が変わると院内電話がひっきりなしにかかってくる。 役にたった格言 坂出市立病院は救急車が頻繁に来る。研修医(1年目)が救急のfirst callである。内科の研修医は平松先生と私の二人なので、当たる確率が高い。深夜に当直していると20歳代の女性が下腹部痛で飛び込んで来て激痛を訴えている。未婚で妊娠はしていないと答える。しかし産婦人科の授業では“女性を診れば妊娠と思え”という格言を習ったのを思い出した。妊娠反応を検査して貰ったら、陽性である。産婦人科の佐藤先生を呼ぶとすぐに来てくださり、ダグラス窩穿刺で診断が子宮外妊娠の破裂と診断がつき、緊急手術となった。 このように常に各科の先生にお世話になり、患者さんから表立って怒られることもなく、1年4カ月の研修を終えることができた。
恵まれていた同僚と先輩
振り返ってみるといかに周囲からの助けでこれまでやってこれたのかを思い知らされた。改めて私は良き師と同僚に恵まれていたのを実感している。 我々の頃は卒業時に進路を決めていた。学生時代に疑問に思ったことを現在も引き続いて研究できているのは、幸せな環境だ。自分が一体何をしたいのかをしっかり考えて将来を決めるべきである。自分からしたいことは少々の困難は乗り越えることができる。私が卒業した当時は糖尿病性腎症は数の少ない疾患であったが、現在は腎臓領域においても糖尿病領域においてもとても数が増えたこともあり、克服すべき重要な疾患となっている。また、単に診療をこなすのではなく常に病態を考えて、疑問を持ちながら診療に当たるのは重要である。 坂出の研修は、指導医不在の研修であり、今の基準からみれば様々な問題を抱えている。研修というよりも一人前の医師としての仕事を期待されていた。また休みは殆どなくきつかったが、この一年余りの研修によって臨床の勘が養われ、現在でも私の臨床の糧になっている。まさにon the job trainingであった。責任を与えられたことにより、勉強せざるを得ない環境に追い込まれ、実力をつけることができた。一概に今と昔のシステムを比べても仕方が無いがどのような環境でも一生懸命診療をして、教えを請えば道は開けてくるものだ。 私の好きな格言は“Where there is a will, there is a way.” である。
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