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キャリアの軌跡 糸島 達也

出会いは生涯の宝となり、貴重なチャンスに変わる


1964 岡山大学医学部卒業

    岡山済生会総合病院でインターン

1965 岡山大学医学部第一内科入局

    岡山大学大学院医学研究科(内科学)入学

1969 同卒業

    岡山大学医学部附属病院中央検査部助手1974 岡山大学医学部附属病院 第一内科助手1981 岡山大学医学部附属病院講師

1987 スーダンのイブンシーナ病院に派遣

1989 岡山大学医学部第一内科助教授

    岡山済生会総合病院内科主任医長

1995 同 診療部長

1999 同 副院長

2003 同 院長

2010同 名誉院長



医師としてのターニングポイントは?

大学院終了後、通常であれば市中の基幹病院に出ていたはずが、腹腔鏡を担当していたすぐ上の先輩が病気になられ、急遽、中央検査部の内視鏡担当の助手になり、その後20年間大学で研究と臨床を行うことになった。今になって思えば、このことは、私の人生の、また研究者としてのテーマを与えてくれることとなった。好きな研究を世界が相手だと思い、思う存分やった。そしてそこから得られたものを次々と後輩に一生懸命指導した。 また基幹病院に出て多くの症例を診る同僚たちのことを思うと、大学内に留まっていることに焦りを感じることも正直あった。しかしその分、私は本気で目の前の患者さんを診た。注意深く観察し、すべてにおいて真面目に対応した。そうすることで、大学にいる自分ならではの“難しいものに強い”という自信を得ることができた。

 

医師としてのキャリアを積む上で最も大切にしていることは?


看護師や事務員、臨床検査技師、栄養士などと分け隔てなく付き合ってきた。ナイチンゲール誓詞にある「われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸せのために身を捧げん」に応えられる医師になる。 先輩に教えてもらった分を後輩に返そうとした。注意すべき問題点を見つけると瞬間湯沸かし器のように、すぐにカンカンになって湯気を出して叱るように努力した。これは先輩のマネをした。翌日にはけろっと忘れている。また自分で直せることしか叱らないようにした。家柄とか容姿とか自分で努力しても直せないことで責めないようにも注意を払った。 一方で、人の良いところばかり見て悪口を言わないとよく人には言われた。患者さんはもちろんのこと、人の話はよく聞くように努めた。 自分がまだ医者になりたての若い頃、倉敷にある重井病院の当時の院長が、私を玄関まで見送ってくれた。感激した。これもまねをしている。

 

これから医師としてキャリアを積む後輩へのアドバイスは?


先輩は年長であり、経験を積んでいるが、能力はあなたと同じである。あなたがその年になるともっと成長しているかもしれない。おそれるな。追い越せ。私は、常に「迷ったら前へ」を信条にやってきた。 人との出会いや巡り合せは、貴重である。 思わぬ人と時が応援者・宣伝マンになってくれる。 1)ある慢性肝炎の社長に:長生きをしたかったらお酒を飲むなと話したら、ぴったり止められた。その後同病はみんな亡くなったが、この方は15年後に治療の進歩により全快した。 2)同窓会で、じゃ胃カメラを撮りましょうとすぐに手帳で日程を決めた。胃がんが見つかり助かった同級生が宣伝マンになってくれている。 目の前のことに真摯に全力を尽くせば、人の信頼は得られ、その出会いは、生涯の宝となり、貴重なチャンスに変わる。


 

学生時代は弓道部で活躍 朝日高校では2年間バスケット部に入っていた。大学では津島の弓道部に入り、同級生も多く練習に明け暮れた。2年目の西日本医科学生体育大会で岡山大学は準優勝であったが、私は新人の幸運で個人優勝した。あの時の競射では不思議に緊張の中にも心がしずまったのを覚えている。優勝者の納射も無事出来た。岡山大学弓道部の一員として全日本学生弓道大会にも参加した。弓道部の先輩の影響を受けた。当時の医学部弓道部長は新進気鋭の第一内科の小坂淳夫教授であった。4年生の時に主将をした。良く面倒を見てくれたY先生、後に第一内科に行かれたO先生、先輩後輩同僚の心意気はその後もずっと私を支えてくれた。私は家庭教師のアルバイトをしながら生活費を得て、かつ弓をし、勉強もした学生時代であった。

(写真1)1959年 岡山大学津島キャンパスでの新入生勧誘のための弓道部デモンストレーション






1964年 インターンは岡山済生会病院で 当時、岡山済生会病院は人気があった。一緒に12人が研修した。患者さんや指導医に尽きぬ良い思い出がある。後に再就職して院長になってみて当時の大和院長のすばらしさが再認識できた。当時の武見太郎日本医師会長が病院に来られて糖尿病の講義をされ、食事療法について質問され、絞られたのを覚えている。 岡大第一内科の大学院を受験するためにドイツの医学週刊誌を読んで準備した。数倍だったと思う。 1965年 岡大第一内科の新人の頃  〜一生の患者は若いときにできる〜 入局した当時、患者の平均在院日数は数ヶ月だったのだろう。長い慢性肝炎患者、肝硬変患者は年余にわたって入院していた。輸血後肝炎が多かった。 ある膵がんの患者さんを受け持ったが、奥さんが立派に看病され、子供も良くしていた。死ぬ時にこんな家族に囲まれて死ねるのなら結婚しようと思った。 後腹膜線維症のある慢性腎不全の患者さんに初めて腹膜透析をした。岡大の腹膜透析第一例だったかもしれない。当時は腹膜透析という言葉も珍しい時だったと思う。我々のチームには腹腔鏡という技術があり、腹水穿刺、腹膜穿刺に慣れていたためかもしれない。 若い男性が、身体はだるかったがチームのために夏炎天下で野球に出たあと、劇症肝炎になり運び込まれてきた。若い病棟医が協力して全血交換、血漿交換をして、惜しいところまで回復したが亡くなった。今でもお兄さんが盆暮れに羊羹を送ってくれている。若いが本気で診ていた。 同級生は第一線の病院で多くの患者さんを診て活躍研修していたが、大学では一人が担当する患者数は少なかった。そこで大学院の4年間は全入院患者80人の主治医のつもりで教授回診について回った。年令に関係なく、本気で患者さんのことを考えて治療すると、その患者さんは一生の患者さんになる。 当時の岡山大学には中四国全県から難しい患者さんが紹介されてきていた。大学院の3,4年生の時に、岡大第一内科に紹介されてきた遠方の患者さんで帰れない人を近くの有床診療所に入院してもらい担当した。責任を持って診たので、大変勉強になった。この頃結婚した。 大学院での研究生活 直接指導して下さったのは島田講師である。 研究1.ICGテスト。大学院生として腹腔鏡、肝臓カテーテル検査を担当していたが、さらに新に開発されたICGテストを担当した。採血と注射が上手になった。肝臓血流量の測定、肝機能容量の測定をした。 研究2.腹腔鏡下肝生検組織標本の連続切片の観察を行い、リンパ球浸潤の位置と肝血管との関係を調べた。腹腔鏡下色素注入した肝表面リンパの流れも考慮して、リンパやリンパ球の流れは肝小葉から門脈域へと向かうと考えた。当時の多くの学者は、リンパ球が逆に門脈境界板を切り崩して小葉内に入り込むと考えていた。 研究3.肝疾患の自動診断 多変量解析。理学所見、当時の肝機能検査、KICGを加えた多変量でどの組合せが肝疾患の診断に最適かということを工学部の先生の指導をいただきながら行った。当時は岡大の理学部にNECの初期のコンピュータがあった。夜間泊まり込みで使わせてもらった。その後も岡大の電算センターで肝臓の色の解析などでお世話になった。 1969年 大学院終了後29才 すぐに中央検査部助手に 腹腔鏡を担当していたすぐ上の先輩が病気になられたので、中央検査部の内視鏡担当の助手になった。ちょうどこの頃は血球や生化学の自動分析装置の導入がはじまった頃であった。内視鏡は電子内視鏡前夜であった。 1969年には岡山大学紛争の投石事件で警察官が亡くなった。津島の大学前には全共闘のバリケードが作られていた。これの取り外しの業務命令が来た。若くて武道系のクラブ出身は指名しやすかったのであろう。無事撤去された。 腹腔鏡の資産を整理して台帳を作り、肝疾患の予後調査を開始した。一方で腹腔鏡のカラー写真を見直して、活動性慢性肝炎で赤色紋理の存在に注目した。これが腹腔鏡の番地分類に発展した。予後調査と番地分類をもって国内外の学会で発表した。 カラーテレビカメラも導入時期でRGBの順次式と同時式があり、今から思えば大きな装置を導入して、コンピュータに画像を取り込んで解析することが出来るようになった。電算センターで色を測定したり、大阪の業者のコンピュータを使わせてもらったりした。色気違いと言