明日否定される技術であるからこそ存在意義がある
1959 岡山大学医学部卒
1963 国立公衆衛生院正規医学科修了1964 岡山大学大学院医学研究科卒 (医学博士)
1969 The Johns Hopkins University卒1970 岡山大学医学部助教授
1980 岡山大学医学部教授
1991 衛生学・公衆衛生学教育協議会
代表世話人
1993 Outstanding International
Graduate Awards in Public
Health Leadership 授賞
( Johns Hopkins University )
1994 The Johns Hopkins Society of
Scholars の終身会員
日本学術会議会員(第16期)
1995 Member of the Dean’s Alumni Advisory Council (JHSPH)
2000 定年退官により岡山大学名誉教授
2003 高知女子大学・高知短期大学学長2007任期満了により退官
医師としてのターニングポイントは
医学部を卒業した後一年間のインターン(卒後臨床研修)も大学の付属病院で、極めて形式的ではあったがそれだけに自由で自主的な各科ローテーションの臨床研修を行い、国家試験の結果が発表される前に大学院に進学し社会医学系・衛生学を専攻した。大学院在学中に当時の国立公衆衛生院(現:国立保健医療科学院)での一年間の正規医学科の研修も行い、大学院の課程を修了して学位を得て助手に採用され、講師・助教授を経て教授に就任し、定年退職した。履歴は全く単純であり母校で純粋培養されたことになり、半世紀近くもの間医学部の西門を往復し続けたことになる。その間に一年余りアメリカのThe Johns Hopkins University のSchool of Hygiene and Public Health に留学し、Master of Public Healthの学位を取得した。当時は未だ敗戦国として経済的に貧しい国であったために日本人がアメリカに留学するなどということは極めて困難な時代であったので、本学の図書館の改築に多額の寄付をしてくれたChina Medical Board of New York ( Rockefeller Foundationの一つの支部 )の奨学金の全面的な助成を受けたお蔭で勉学に専念できる非常に豊かな留学生活をさせて貰ったことを思い出す。 我々昭和34年卒は「ねぶち会」と称して、医学部入学者全員が揃って卒業し国家試験にもパスした当時としては非常に結束力の強い特異なクラスと学内では思われていた。卒後の教室選びでも臨床以外の基礎と社会医学系に80人中14名が進学し、衛生学専攻も筆者を含めて3名だった。逆に内科や外科を専攻する者が少なく、第2外科を除いては大学院生を再募集させた珍事に大教室を慌てさせて楽しんだことを思い出す。耳鼻科や整形外科を専攻する者が多く、専攻をクラスで相談し合ったのではないかと疑われていたようだ。筆者の衛生学専攻は、学生時代の部活動である「新聞部」と「社会医学研究会」そして学生会などでの活動から「公衆衛生学=社会医学・予防医学」であろうと多くのクラスメートから期待されていたことは自覚していた。未だ結核が「国民病」とか「亡国病」と言われて働き盛りの若年者が数多く結核で命を落としていた時代に、今日の少子・高齢社会を予測していたとも思われるチーム医療の編成を推測されるかのような今日最も医療要求の高い整形外科と耳鼻科を専攻したクラスメートが多かったことは当時としては異常事態だったと推測される。 本論の「公衆衛生学」を専攻した最も強力な動機づけとなったのは、学生時代に感じた医学教育に対する疑問である。医学生を附属病院内だけで教育するから、「医療を受診したければ病院に来い」という医者しか育たないのではないかと考えた。本来はもっと地域社会で日常生活を送っている身近な人達に役立つ医師の活躍の場があるはずであり、病院を訪れなければならなくなる病人にならずにすんだ人達が多いのではないかという疑問を持った。この疑問は医学生時代の社会医学研究会と新聞部の部活動の中で強まったが、大学での授業では回答が得られなかった。大学病院の待合室に溢れる程集まってくる患者さんは自分が病人であるという「病識があり」、医師が「病気を治してくれる」と期待し、病院を訪れる「時間的・地理的・社会的条件」が全て整っている極めて限られた人達であり、これらの条件のどれ一つが欠けても医療受診は成り立たない。 ストレス学説でノーベル賞を受けたセリエ(Hans Selye)は医学生時代に各科の臨床講義で「鑑別診断」の講義を受ける度に折角苦労をして鑑別診断をしても治療が同じならばその苦労は全く無駄な努力ではないのかと疑問を感じた。医師となりホルモンの研究を始めて医学生時代から持ち続けていた疑問が鮮明になり、多種多様な反応を示すホルモンの投与で共通して現れる症状を見出して「ストレス学説」を導き出したと言われている。ノーベル賞とまではいかないまでも、新しい発見は学生時代の新鮮な疑問を持ち続けることが出発点になるのではないだろうか。ペニシリンが青カビによって作られた物質であることを知らされた日本人の医学者が「教授命令で淋菌の培養」を研究中に貧しい不潔な研究室で青カビが生えては淋菌の培養に失敗し続けていたことを思い出して不運を嘆いていた経験談を聞いたことがある。たとえ教授の命令であっても淋菌の培養法の開発よりは淋箘の殺菌法の解明に役立つ研究への「発想の転換」が出来ていれば、その日本人研究者がペニシリンを発見しノーベル賞を獲得できたのではないだろうか。 この項目への回答としての結論は「医学生時代に持った疑問を大切に」というアドバイスである。尚、筆者が日本学術会議の会員に選ばれて国レベルの医学教育や地域医療・医師国家試験にかかわる諸々の施策に対してアドバイスできる立場になって、国立大学に対する「学外での社会医学教育実習費(後にプライマリ・ケアの学外実習)」の予算化や医師国家試験における全科必修化・卒後臨床研修の復活・プライマリ・ケアへ国民的な要望の高まりと広まりが実現されていったが、その間に30年以上もの年月が過ぎ去っていたとは言え学生時代の疑問への回答は着実に得られつつあることは実感できた。
医師としてキャリアを積む上で最も大切にしていることは
「職業選択の自由」が保障されている国で「医師」を職業として選んだ以上は、一日二十四時間・一年三百六十五日間担当している患者さんに対する責任を持ち続けていなければならないことを自覚していなければならない。患者さんは一日二十四時間・一年三百六十五日の日常生活を送っている立派な人格をもつ「一人の人間」であることを忘れてはならない。すなわち、医師には勤務時間はなく常に「全人的医療=Whole patient care」をチーム医療として責任を持っている。
医師法(第19条)には「応召義務=患者さんに求められれば診療を拒むことはできない。」と規定されて居り、そのために全科必修の医学教育と医師国家試験を義務付けている。とくに国民皆保険制度の下では国民総医療費は国民全体で負担しているのであって、患者さんが負担している費用はほんの僅かな一部分の分担でしかない。医師から聴診器ひとつ当ててもらっていないし、顔も見ていない数多くの人達が医療費の負担をしている以上は、今日医師が提供すべき医療は患者さんに対してだけではなく全国民に対して責任を持っていなければならない。今日の医療水準を持つ医療を提供するためには、最低七百人で構成される保険組合が組織されていなければ医療保険制度は成り立たない。
さらに、「専門職=profession」として「固有の知識・技術=体系的な知識と科学的な技術」を持っていなければ、長年の経験と勘に頼る「職人」でしかないことになる。今日我が国の国民の健康を取り巻く背景が急速に著しく変化している時、この変化に的確に対応できる医療・保健指導を提供するためには、専門職に課せられている「自主的な生涯学習」を実践し続けなければならない。
「全人的医療」とは、従来の「D=Doctor・Diseases orientedのCure」として、患者さんに対しては「玄人のすることに素人は一切口を出すべきではない」と云う考えで密室での延命治療をして来たことへの反省として、「P=Patient・Problem orientedのCare 」への転換を意味している。医師は批判されることの少ない立場にいることが多いだけに余程の自制心を持ち続けていないと、「裸の王様」になって延命治療と「死の恐怖」を煽って「禁止」と「強制」の連発による難行苦行を患者さんに押し付けて治療効果に責任を取らないための「保健指導」を行う危険性がある。それだけに今日では患者さんや御家族が受療する治療法を選択できる情報を提供して理解を得るための「説明と合意=Informed consent 」によって患者さんの「生命・生活の質=Quality of Life 」の尊重に専念することになった。「説明と合意」についても、とかく「合意書に患者さんの確認を証明するための署名・捺印」を取得することに力点が置かれている場面を見ることが少なくないが、そのようなことでは患者さんや御家族の医療に対する「納得」や「理解」「満足感」を得ることはできないであろう。大切なことは患者さんと御家族に理解される「説明」にこそ重点を置くべきである。
これから医師としてキャリアを積む後輩へのアドバイス
医学生時代の疑問を大切にするためには、医師になってからも常に疑問を持ち自分で考えて回答を得る努力が必要となる。最近、EBM( Evidence based medicine )と云う用語をよく耳にするが、既に筆者が留学中の1960年代の後半にはアメリカで幅広く実践されていた保健・医療であり、留学中に教え込まれてきた。生涯の中で必死で勉強したのは大学受験に向けての高校三年の時とアメリカ留学中である。不思議なことにEBMは紹介されているが、その前提になるPBR( Practice based research )という用語が全く紹介されて来ない。EBMとは日常診療の中での調査・研究によって得られた「所見=Evidences」に基づく保健・医療の科学化が求められているのである。日常診療業務の中での調査・研究とは「疫学=Epidemiology」を活用してのデータの集計・分析である。
疫学的なアプローチとは患者さんのデータを常に対照群( Control )との比較で検証することであり、当時臨床の現場で幅広く臨床疫学者が活躍をして日常診療の科学化に取り組んでいた。わが国ではいつの間にか「文献考察」がEBMの基礎であるかのように誤解されていることに驚きさえ感じられる。薬害を初めて国際的な規模で調査したPaul D. Stolley教授は、筆者の開講記念に特別講演をされて「No medicine is good medicine. The best medicine is the oldest medicine, because the old medicine is safety.」と云う言葉で講演を締めくくられたことを今でも鮮烈に思い出すことが出来る。最新の医療技術とは明日否定される技術であるからこそ存在意義があるとも言える。最新の医療技術を追い求める時に決して忘れてならないのは、その技術の安全性である。保健・医療の場面では「安全性」と「患者さんの快適感と満足度」が最重要課題でありながら「医学的効果」を重視して無視しないまでも軽視してしまう危険性があることを過去の経験から得られた「戒め」として告白して置きたい。
(写真1)ジョンズ・ホプキンス大学・公衆衛生大学院での受賞は20ケ国21名の候補者の中から選ばれたものであり、その功績で同大学学士会の終身会員に選ばれた。同会員には大学院で同級生だったフィリピンの元厚生大臣で現在は上院議員も選ばれている。
(写真2)高知女子大学の学長室。同大学は我が国で最初に四年制の大学教育として看護婦(現:看護師)を養成した歴史と伝統を誇っている。現在職能団体として最多数を組織している国際看護協会と日本看護協会の会長はいずれも同大学卒業生である。
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