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キャリアの軌跡 山名 征三

先見性、柔軟性、戦略、スピードすべてに卓越したものが要求される


1964 岡山大学医学部医学部卒業

1969 医学博士号取得(免疫学)

1970 オーストラリア、モナシュ州火学(メルボ

ルン)大学院博士課程に入学。

    免疫アレルギー学専攻

1973 Doctor of phylosophy (Ph.D)の称号授与

1979 岡山大学医学部附属病院講師拝命

1980 西条中央病院院長就任

1994 東広島記念病院 広島リウマチ・膠原病

    センター創立

1998 広島生活習慣病健診センター創立

    (東広島市)

2002 医療法人社団 ヤマナ会設立

2010 東広島整形外科クリニック併合

2011 広島生活習慣病・がん健診センター設立(広島市)


■ Academic Relations (1) Japanese Association of Rheumatology Specialist / Caregiver (2) First Rhetorical Association of Japanese Rheumatology Chinese and Shikoku branch meeting president (3) Japan Clinical Rheumatology Association Achievement Member (4) Japan Allergy Society Achievement Member (5) Japan Clinical Immunology Association merit member (6) Japanese Academy of Sciences certified physician ■ Ministry of Health and Welfare Group Meeting  Ministry of Health and Welfare Research group for rheumatoid arthritis · members (former)  Ministry of Health and Welfare Specific Disease Behcet's Disease Research Group / Group Member (former)  Ministry of Health and Welfare Specific Disease Pulmonary Fibrosis Research Study Group · Former member ■ Regional meetings  Hiroshima prefecture rheumatology physician association first foundation president (original)  Hiroshima rheumatology research association founded representative caretaker (former)  Hirojima collagen disease case study meeting (study group) founder representative caretaker (former) ■ Qualifications  The Best Doctors in Japan (ACR USA)  Member of the Japan Rheumatic Foundation Health Review Committee


医師としてのターニングポイントは

1.学生時代

 学生時代にはよく遊び試験に落ちない程度の勉強のごく平凡なものであった。このころより気持ちは海外に向かっていた。英語圏のどこかの国で税金を払う生活をしてその後、開業でもしてのんびり人生を過ごしたいと思っていた記憶は鮮明に残っている。

 現実は全くかけ離れたものであるが。

 学3の時、曽我部、安田と私の3人で北アルプスの最深部三叉蓮華に当時既に山小屋を開業していた伊藤正一さんと相語り、岡大山岳診療所を開設したことは今でも思い出深い。半世紀を経た今も活発に診療活動をしていると聞くと嬉しい。


2.インターン時代

 昭和39年、東京都立川市で1年間のインターン生活を過ごした。全国の国公立大学出身者15名と山吹寮で共同生活を行い、全国に知己を得た。40年を経て相集い毎年各自の出身地をめぐり、観光,昔話に旧交を温めている。私の医師の卵としてのスタートであった。今にして全国にこのような友人がいるということが如何に人生を豊かにしてくれるか、お互いかみしめている。


3.医局時代

 昭和40年、岡山大学第二内科へ入局。免疫血液学を専攻し、当時世界的に勃興気にあった細胞性免疫学に深く入り込む。この頃、リンパ球は細胞性免疫に関わっているということは分かっていたが、大中小とサイズで分けられていた時代で、T-リンパ球、B-リンパ球の概念はなかった。昭和44年“抗リンパ球抗体の研究”で医学博士号を受ける。【写真1】


 当時としてはこの研究は画期的で、抗胸腺細胞血清は細胞性免疫を完全に抑制するが、抗脾細胞血清はほとんど抑制しないという明確な差異を発見した。姿、形の同じリンパ球が臓器が別だと異なる抗原性を有することに気づくが、T-リンパ球、B-リンパ球の概念のない状況下でその意味するところが理解できなかった。多くの著名な免疫学者,同輩,先輩に相談をかけたが、いずれからも回答は得られなかった。これが後に胸腺リンパ球、すなわちT‐リンパ球,脾臓のリンパ球はB‐リンパ球と判明することになる。このデータを解析しきれなかった自分を今も悔やんでいる。














[写真1]山名征三,抗リンパ球血清に関する研究 ―抗マウス胸腺細胞血清の特異性―,アレルギー18-9,731-741,1969




4.メルボルン時代

 昭和45年5月、メルボルンのモナシュ州立大学にPh.D.として留学。抗胸腺細胞血清の研究を続け、より高力価の抗体を作製すべく、連続比重遠沈法で比重別に分けた胸腺リンパ球を用いて、抗血清を作製するも有意差を認めず失敗に終わった。しかし、関連研究でImmunology等へ4編の論文を上梓した。Monash 州立大学(メルボルン)の免疫病理学教室のメンバーに混じり、Ph.D.時代を過ごす。【写真2】

 メルボルンには当時メルボルン学派と呼ばれるグループが存在し、世界の免疫学をリードしていた。その中心はノーベル賞受賞者Sir Burnettに始まるWalter&Eliza Hall Instituteで多彩な研究者が嘩を競っていた。Neonatal thymectomyで有名なJ.Miller、単個細胞の培養でOne cell、One cloneを証明したG.Nossal、Autoimmune diseaseなる言葉を提起したMackay、蛍光抗体法の生みの親R.Nairnなどが第一線で活躍していた。

 メルボルン時代を含め得た教訓は、研究は明確な作業仮説を持って組み立て、理解不明なデータは徹底的に究明すべきであるということである。大きな発見を逃すことがある。アイディアと柔軟な発想が勝負だということ。オーストラリアでのものにあふれた素晴らしい研究所生活で、私のアイディアは止まり、むしろ訪豪前の日本の乏しい環境下のほうがアイディアが湯水のごとく湧き出ていたことを思い出し、鉛筆と紙だけの中にこそ“閃き”が湧いてくることを実感したことも覚えている。しかし、今の時代は必ずしもこのことは当てはまらないかもしれない。

 メルボルンでは多くのスタッフ、優れた研究環境の下で2年9ヶ月で300ページに及ぶPh.D.thesisを書き上げた。これは未だ破られていない最短と聞いている。早いがいいとは思わないが、日本を背負った気概で頑張ったのが私たちの世代である。Common WealthでPh.D.を取得したのは岡大120年の歴史で私が最初であったことを後日聞き、誇りに感じている。Ph.D. thesisは、3年間の研究成果を4編のpublicationと一冊にまとめたもの。これで3人の学内外レフリーの査定を受ける。【写真3】


 これらの経験が以後の私の思考過程に大きな影響を与え続けている。今の若者は内向きといわれている。外に打って出て多様な価値観を身に着けるべきである。当時私共は日本で長時間働いて結果を出していたが、メルボルンでは研究システムが整備されていて、短時間で同じ成果を出していた。昔の日本の医局制度は医者は“タダ”で使え、従って実に無駄な動きが多かった。即ち組織にシステムが機能していなかった。今も基本的には変わっていないと思う。そのつけが医局崩壊につながり、かつ新たな制度を産む障壁になっていると思うが、いかがであろう。







[写真2]Monash 州立大学の免疫病理学教室のメンバー








[写真3]Ph.D.thesis



5.大学帰局

 ベーチェット病の結節性紅斑。発生24 時間以内には局所にリンパ球、マクロファージのみで、好中球は見られない。このあと急速に好中球浸潤が起こる。【写真5】

 昭和48年2月帰局。

 研究環境のあまりの落差に愕然とし、研究意欲が急速に萎えていった記憶が鮮明に残っている。しかし周囲の期待と自分の内なるものとの葛藤が激しく、目標を失っていった時代である。しかしこの間に行った主な業績は私のライフワークのひとつであるベーチェット病についてである。当時ベーチェット病は好中球病の代表とされていたが、患者の結節性紅斑の極く初期像(24時間以内)にはリンパ球のみ浸潤し、紅斑が可視化した後で好中球が出現することに気づいた。このことは紅斑はリンパ球により誘導され、好中球の出現によって完成されることを意味している。これらデータは1980年第一回世界ベーチェット病ロンドン国際会議の場で発表した。その際、活性化されたリンパ球よりリンフォカインが産生され、それが局所に好中球を呼び込み(ケモタキシス)炎症が波及し、結節性紅班が形成されるとの仮説を提示した。現在この考えは定説となっている。即ちベーチェット病とはT‐リンパ球の過剰反応性に基づくサイトカインの産生による好中球の機能(活性酸素産生、遊走能)の亢進であると定義されている。30年の時を経て近年の抗TNFα抗体(インフリキシマブ、商品名:レミケード)によるベーチェット病治療への道を開かれ、それらの基礎データを提供していたことになる。これら事実は昭和52年度(1980年)厚生省特定疾患ベーチェット病研究班の業績集に“組織浸潤細胞よりみたベーチェット病の成因に関する考察”と題して上梓し(1)、1980年のロンドン国際ベーチェット病会議でも発表し、1981年刊行の“Behcet's Disease”にも2編が上梓されている。(2)(3)厚生省は1995年、公式見解として厚生省班会議の結論の形式を取っているが、私の業績を認知している。


 72歳を過ぎた今もリウマチ・膠原病外来を続けているが、これら一連の事実を改めて公にすべきではないかと感じている。即ち、ベーチェット病は好中球病の代表として永らく信じられて来たが、私がリンパ球病だと明確な根拠を示してその概念を覆したわけであり、そのことは近年発表されたベーチェット病の眼症に対するレミケード療法でも明確に裏付けられた。(4)我が国で30数年前に提唱されたベーチェット病の病因の根幹に関わる研究成果が放置されていることは日本の大きな損失であるとさえ感じている。【写真6】

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(1)山名征三、青井克行、山本道教、他,組織湿潤細胞よりみたベーチェット病の成因に関する一考察,厚生省特定疾患ベーチェット病調査研究班,昭和55年度研究業績集,214-219,1980

(2)S.Yamana, K.Aoi, M.Yamamoto, and T.Ofuji,Studies on the Pathogenesis of Behcet's Disease:Is Behcet’s Disease Mediated by Mononuclear Cells? Observation of Early Infiltrated Cells in the Site Of Erythema Nodosum., Behcet's Disease, ed. by G.Inaba, 459-468, 1982

(3)S.Yamana, K.Aoi, M.Yamamoto, and T.Ofuji,Studies on the Pathogenesis of Behcet's Disease:Is Behcet's Disease Mediated by Mononuclear Cells? Increased Chemotaxis of Peripheral Blood Monocytes in Patients with Behcet's Disease.,Behcet's Disease, ed. by G.Inaba, 469-475, 1982

(4)Sfikakis PP, Theodossiadis PG, Katsiari CG, et al. Effect of infiximab on sight-threatening panuveitis in Behcet's Disease, Lancet, ;358:295-296, 2001








[写真5]患者マクロファージの遊走試験の結果を踏まえて、結節性紅斑の発生機会の仮説を提示。現在の定説となっている。






[写真6ベーチェット病はリンパ球の活性化によって好中球が誘導され病変が形成されるリンパ球性炎症という2 編の論文を掲載した専門書。


6.新たな船出

 昭和55年、目標のない空白の時代にピリオドを打つべく、大学を離れる決意を固めた。広島へアルバイトで週1日出向き、広島県はリウマチ・膠原病に関しては空白地帯であることに気づいた。ここにリウマチ・膠原病を移植しようとの明確な目標ができた。広大の第二内科山木戸助教授、整形外科安達助教授と相計って、昭和57年、広島リウマチ研究会を立ち上げた。翌年昭和58年には、広島膠原病研究会を立ち上げた。人間は明確な目標を持って生きねばならないことを久しぶりに実感した瞬間である。院長として仕事をした西条中央病院は24時間、365日体制の救急病院で、ここで10年間第一線の医療と向き合い、大学で果たせなかった臨床の腕も急速に上げた。

 二つの研究会は広島でリウマチ・膠原病に関心を持つ若い医師たちの道場となり、着実に根付いていった。研究会で志を持つ若者に期待したことは、発表時間はポイントのみの発表で短くし、ディスカッションに十分な時間をかけること、多方面より講師に来ていただき、納得いくまで議論をすることであった。それはこの2つの研究会の伝統となり、広島に来る講師の間では大変緊張感が走るといわれ、我が意を得ている。

 振り返ってみて、知らない土地でこのようなことが主催できたのは私のキャリアのおかげであると思っている。即ち研究とは何たるかを知っていた故に可能となったのであろう。臨床面のみ歩いた人ではうかがい知れない世界である。若い頃2〜3年でもいい。研究生活に没頭する時期を持ち、それらの成果を論文にまとめ、発表をする。そのプロセスを経験することで第一線の医師として仕事をする際のものの見方、考え方に多様性が加わり、思考が深化すると確信している。


7.リウマチ膠原病専門病院の設立

 平成6年に次なる転機が訪れた。広島の西条の地に岡山以西では初の40床のリウマチ膠原病専門病院を設立した。【写真7】時に56歳であった。そもそも岡山から広島に出てきた理由の主たるものは広島に、患者を専門的に診れる病院を創りたいとの思いであった。設立までに10年余りを要したことになる。当初から青井、山口両先生の助けを得て病院でスタートした。3年目には年間5万5千名を超える文字通りリウマチ膠原病のみ集まる専門病院としての評価を得た。患者は広島県下全域、山口県、岡山県など近隣県よりも来院した。講演にも数限りなく出かけ、順風満帆であった。しかし開院して5年を過ぎた頃より保険外で使用していたMTXの効果のすごさを実感するようになり、病院の将来のことを考え何か他の基盤を持たねばという危機感を抱くようになった。当時選択肢としては老人医療であったが、私は誰もやらない健診部門に目をつけた。当時は成人病といわれていたものが生活習慣病と改められることを知り、健診の時代を予見した。1990年代になり英文ペーパーには革命的なリウマチの新薬として生物学的製剤の記事も散見するようになり、リウマチ以外の事業への意欲を掻き立てられた。2001年、大阪大学岸本忠三教授らが発見、開発した抗IL-6阻害剤、MRA(商品名:アクテムラ)の治験にかかわり、病院は急速に治験病院としての体裁を整えていった。病院は内容的にも財務的にも何不足ない状態が続いていた。治験は医師,スタッフにモチベーションを与え若い医師が定着し、その状態は2011年の現在まで続いている。しかし足元では幾多の革新的な治療法の影響は避けがたく、入院患者の確保もままならず危機は着実に近づいていた。









[写真7]筆者が56 歳で創設した病院。右の高屋は60 歳の時増築した健診センター


8.広島生活習慣病健診センターの設立(東広島市)

 平成11年(2000年)病院に隣接して7階建てのビルを建設し健診センターとしてスタートさせた。新事業と過大投資に伴う辛酸を舐めつつも、努力の甲斐あって設立11年を経過した今(2011年)県下で1,2を競う健診センターにまで成長した。人間ドックはもとより企業、住民、学校健診など巡回健診にも力を入れ、今ではバス26台を保有し、企業、自治体、NTT、郵政、官庁と幅広く関わっている。2010年には年間健診者数が10万人を超えた。【写真8】











9.広島生活習慣病・がん健診センターの設立(広島市)

 余力をかって、2011年には広島市内に大型の健診センターを開設するべく準備を進めて4月1日正式オープンにこぎつけた。【写真9】健診の究極の目的は早期がんの発見にあるとの明確な目標を掲げ、全国的にも珍しい“がん健診センター”というネーミングにした。開院1ヶ月余りの出足は順調で手応えを感じている。これらが軌道に乗れば当初の目的であるリウマチ膠原病センターを財政的に支え、かつ組織として強固なものになると信じている。









[写真9]中国絵画 鶴の群生と隠崎隆一氏の備前焼



おわりに                       

半世紀にわたって医学、医療、医業に身をおいてきた者として、最近強く感じることは、医療形態の急激な変革である。ITの応用、マルチヘリカルCT、MRIの急速な進歩による画像診断、内視鏡技術の延長戦上の非観血的手術の普及など枚挙にいとまがない。2000年になって分子生物学が医療の第一線、特に治療医学にまで応用されており、医療環境が大幅にかつスピーディーに変わってきているということである。昔ながらの製薬技法がある一方で、分子生物学的手法とコンピュータを用いた創薬すら行われるようになったと聞く。関節リウマチ治療は、TNFαという一分子の阻害で有史以来の複雑怪奇な関節リウマチがコントロールでき、IL-6阻害でも同様の現象を認め、さらには免疫の基幹細胞である活動性T-リンパ球の阻害でも同様のことが誘導される時代になっている。 更には細胞内外のシグナル伝達のコントロールで関節リウマチの活動性がほぼ完全に抑制される時代である。目標に向かう道はいくつもあるということである。しかもこれら分子レベルの手法はますます研ぎ澄まされ、RA以外の膠原病、癌など他疾患への応用へと広がっている。このような変化の速い時代を生き抜くことは容易なことではない。 先見性、柔軟性、戦略、スピードすべてに卓越したものが要求されるのが現代であり、21世紀を生きるものの宿命であろう。


私の好きな言葉                  

運命自招、自己責任、目標、先見性、チャレンジ、大局観、多様性、継続、バランス感覚


趣味人生を抜きに私の半生を語ることはできない   

追記:趣味人生を抜きに私の半生を語ることは出来ない。紙面の都合で割愛するが、写真を添付することで推測下されば幸いである。


1.備前焼収集

かなりのコレクションである。私は名前では収集しない。

作品の出来を優先している。作家としては隠崎隆一氏を推奨する。











2.中国近代絵画収集

20年前日本より北京に派遣されたリウマチ使節団の一員に加わり、中国絵画に傾倒し、10年間収集に没頭した。値段が上がり中止した。











3.天板木工

大型の巨木天板でテーブル、座卓を作った。

写真の座卓は奥出雲に出掛けた時、近くの竹林より出た樹齢1000年に近い巨木座卓。大小の節と木のねじれが絶妙の景色を作っている。











4.仙石庭園

全国の銘石を集め、病院より5〜6分のところに2000坪以上の回遊式石庭を造営している。近く近隣を加え、最終的には5000〜6000坪の全国に例をみない石庭を想定している。





















私の趣味は仕事の合間に行ったものであり、それらは仕事と関連している。備前焼・中国絵画は仕事場で来院される患者・受診者の目を楽しませ、テーブル・座卓も食卓として病院で活かされている。仙石庭園はいずれ全国的な名園になると、また、するとの思いを込めて楽しみながら造営している。職員の福利厚生施設として利用しつつ、来院する患者関係者、近隣の人々に今は無料開放している。











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