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キャリアの軌跡 橋本 悦子

与えられた場所で価値を見出して努力することが大切


1977 東京女子医科大学医学部 卒業

    同 消化器病センター 医療練士

1983 消化器病センター 助手

1987 Mayo Clinic 留学

1989 東京女子医科大学消化器病内科 帰局

1996 同 消化器内科 講師

2005 同 助教授2007同 教授







医師としてのターニングポイントは

東京女子医大を卒業後、アメリカで医師として働くことが夢で、少なくとも10年位はアメリカで暮らしたいと考えていました。ECFMGを取得し、シアトルの病院を見学し、女子医大消化器内科に入局後も、渡米のチャンスを待っていました。しかし、チャンスが到来することはなく、卒後10年が経過しすっかり留学を諦めた時、Mayo Clinicへの留学のチャンスが訪れました。このMayo Clinicへの留学がターニングポイントです。今、考えると卒直後ではなく、また、肝臓をある程度勉強し学ぶべきものが見えてから留学したことが良かったと考えています。








[写真1]Mayo Clinic は、人口10万の極寒の地方都市にある従業員3万2千人の巨大な病院と研究施設です



留学の話題の前に、女子医大消化器病センターの昭和50年代当時の状況を少し述べたいと存じます。消化器内科は6年間の医療練士制度がありました。2年間は研修医として消化器を中心に内科全般を学び、その後、1年間の出張病院での勤務、その後3年は、研究グループに所属して消化器の臨床と研究を学ぶというものです。3年目までは、決められたコースで、その後、研究グループを選択します。当時は、上部消化管グループが内視鏡技術の進歩によって花形領域の印象があり、上部消化管グループに所属したいと考えておりました。しかし、各研究部門のバランスから肝臓班に所属が決まった時は、「練士卒業までの残りの3年間、我慢して肝臓の勉強をするか」という感じでした。その後、当時の小幡裕教授から、研究テーマが肝臓とHLAと決まり、さらなる「不運」に嘆いていました。その理由は、将来は臨床医になることが目標でしたので、この基礎寄りのテーマに費やす実験時間が無駄なものとしか思えませんでした。病棟や外来が終わると実験室に向かい、試験管を振る毎日で、指導者もなく一人で考えて購入したキットはワークせず、測定結果すらでない日々が続きました。内視鏡班や超音波班に所属した同僚は、その分野の技術を習得しながら着実に研究ができて羨ましい限りでした。この頃の私は、何一つ自分の希望は叶いませんでしたが、与えられた環境を受け入れる柔軟な性格で、人生はこんなもんだろうと、別にくさったりはしませんでした。また、若さがあり、毎日とても楽しかったように思います。


1987年、主人がMayo Clinicへ留学することが決まり、私も迷わず同行すると決めました。この頃は、すでに肝臓病を学んで7年経っていましたし、子供もいませんので、肝臓学では病理が重要と考え、留学先で病理を学びたいと希望しました。この時、小幡裕教授が消化器内科の席を残してくださった事が今日の私の地位がある理由です。


Mayo Clinicの肝病理学者のLudwig教授は、とても厳しい教授で、肝病理を学んだことのなかった私は、病理の教科書を何回も読んで予習し、週2回のカンファレンスに臨んだことを思い出します。授業の予習をしたのは、人生の中でこの時くらいでしょうか? Ludwig教授からは、病理学の考え方、研究のまとめ方、スライドの作り方などすべてを学びました。2年の留学が終わり女子医大に戻りました。当時の日本では、1989年島根医科大学で初めての生体肝移植が施行され、肝移植の時代を迎えていました。肝移植の病理を学び、Ludwig教授とともに内科の移植カンファレンスに出席していた私は移植の知識がありましたので、帰国後そのまま大学に籍を置くこととなりました。

そして、NASH <nonalcoholic steatohepatitis>のブレイクがありました。

NASHはLudwig教授が疾患概念を確立し、その彼に指導された私は、NASHはごく普通の病気でした。帰国して女子医大にもNASH症例がありましたので、消化器地方会に症例を報告したのは1990年でした。学会では、座長の先生が「会場の先生方で、飲酒歴もないのにこのような病理所見を呈する症例を経験された方はいらっしゃいますか? 先生、本例の飲酒歴を詳細にとるように。」とのコメントと、会場の嘲笑にびっくりしました。この症例は論文として投稿しましたがreject され、そのまま引き出しに入れたままとなってしまいました。これをせめて女子医大学会雑誌に出しておけば記念となったのにと今となっては残念な気持ちです。その後、NASHは、疾患概念の普及と肥満人口の急増で注目される疾患となりました。他施設よりも早く症例を集積しため、NASHに関する論文を書くことができ、ランチョンセミナーや講演会に呼んで頂けるようになりました。


私のキャリアのなかで、最も重要であったのはLudwig教授に出会ったこと、そして、小幡裕教授、ご指導いただいた諸先輩方、一緒に勉強した後輩のお蔭だと感謝しております。



















[写真2]Ludwig 教授は、NASHの疾患概念を確立しました。頑固なまでに病理学の基本を大切にされています



医師としてキャリアを積む上で最も大切にしていることは

「人間万事 塞翁が馬」を座右の銘としております。「吉」と思えることが、後に「凶」となることもあり、また その逆もあります。不運と思って残念がることもせず、与えられた場所で価値を見出して努力することが大切と思っています。 また、自分の苦手を認識することも大切です。私は、学会発表が大変苦手でした。初めてランチョンセミナーでの発表を依頼された時は、発表が下手なことを十分知っておりましたので、他の人の倍の時間練習しようと思いました。この努力で何とか克服したのではないかと自負しています。人は得意分野と苦手分野があります。苦手であることを認めて努力することが大切です。


これから医師としてキャリアを積む後輩へのアドバイス  

相田みつをさんは「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」と言っています。辛い時も気持ちの持ちようです。また、女性医師のキャリアアップは、出産・育児などにより男性医師に比べて大変な努力を必要とします。家庭の事情により一時休職を余儀なくされることもあるかと思いますが、細くでもいいから仕事を続けないと、復帰が大変です。貝原益軒の養生訓では,「医は仁術なり.仁愛の心を本とし,人を救うを以て志とすべし.わが身の利養を専ら志すべからず.天地のうみそだて給える人をすくいたすけ,萬民の生死をつかさどる術なれば,医を民の司命という,きわめて大事の職分なり」とあります。医師になられた方は、社会貢献が使命です。「医は仁術」の精神を持って頑張って頂きたいと存じます。



この文章は2011年8月に掲載されました。


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