目標は遠くに置き、多面的に考えながら、楽しんでやって行きましょう。
1986 大阪大学卒業
1986-1989 大阪大学医学部付属病院 研修医:泌尿器科・ICU、
大阪府立病院 レジデント:麻酔科
1989-1992 倉敷中央病院:循環器内科
1992-2006 名古屋大学 大学教員 集中治療部、救急部、救急・集中医学講座、
卒後臨床研修センター
2006 倉敷中央病院:総合診療科 主任部長・医師教育研修部 部長
2010 救急医療センター センター主任部長
2013 救急医療センター センター長
2014 人材開発センター センター長
医師としてのターニングポイントは
私の医師としてのターニングポイントはたくさんあります。その時々に、今の自分を決定付けた、その時の自分がいました。
1)卒業したとき社会の役に立つ医者になろうと思った
私の卒業した大阪大学の1986年当時は、ほとんど卒業生が大学の医局に入局して研修を始めていました。私は、自分が「〇〇科の医者」として入局することに強い抵抗を感じていました。社会に役立つ医者になるためにはどうすればいいか、よく分かりませんでした。このまま大学の医局に自分を任せて本当に大丈夫なのだろうか、とりあえず一度医者という立場になってから考えて決めてみても遅くはないと思って、入局しないで研修のできる診療科で研修を開始しました。それが、泌尿器科でした。
2)一生の仕事を集中治療と決めた
一年目の秋、泌尿器科で出会った重症患者の管理を行って、集中治療をやる医者になろうと決めました。集中治療は患者さんの役に立つという確信が得られました。当時の集中治療は麻酔科医が片手間にやる大学が多かったのですが、大阪大学にはICUに専属のチームがありました。そこで2年目の研修を受けて一生この道を進もうと思いました。そして、患者さんの役に立つ集中治療室を立ち上げるような仕事ができればいいなと夢想しました。
でも、実際に進もうと思ったら、その「道」がないのです。当時は集中治療医になるためのキャリアパスはなく、自分で探して考えて決める必要がありました。幸い周囲にたくさんの相談に乗ってくれる上司・先輩がいて、本当に助かりました。多くは麻酔科医でしたが、自分が通ってきた「麻酔科医」のキャリアを無理強いする人は誰もおらず、自由な発想でアドバイスをして頂きました。特に故人となった武澤先生、現徳島大学救急医学教授の西村先生と同大学病院災害医療診療部教授の今中先生、現市立宝塚病院病院長の妙中先生、現大阪大学麻酔科教授の藤野先生などには当時も、そして大阪を離れてからも何度も相談に乗って頂いたり報告したりする機会がありました。
大学での2年間の研修のあと、大阪で1年間麻酔科としての研修を受けました。その次のステップとして内科がしたいと思いました。武澤先生の高校時代の同級生だったということで倉敷中央病院循環器内科の光藤先生を紹介してもらいました。一人で倉敷に行き「循環器内科医になるつもりはないけど、集中治療医になるために3年間働かせて下さい。」とお願いしました。受け入れられ、医師4年目の研修が循環器内科医としてスタートしました。
倉敷中央病院での3年間は私の医師としての価値基準を決めた時期でした。当時の循環器内科の患者数は急増し、その一方で創成期のスタッフが退職した直後でたいへん厳しい時期でした。私は、循環器内科どころか内科の経験すらありませんでしたので、その厳しい中でたくさん身につけなければならないことがあり慌ただしく過ごしました。ただ、麻酔やICUの経験から病棟での人工呼吸管理や急変対応、さらにCHDFやPCPSなどの体外循環、経食道心エコーなど、たくさんのことを任されました。チャレンジ続きでした。内科医として自分の患者の退院や復職の支援を行ったり、退院後に自分の外来でフォローしたり、患者を長い目で見る、家庭や社会の中で見るという経験もしました。また当時の主任部長の光藤先生は、地域全体の循環器診療のレベルアップを意識した取り組みをたくさんされていました。これらの経験は、集中治療や救急をする上で私の基盤になっています。
3)大学には向いていないと思いながら14年もいてしまった 倉敷で約束の3年が過ぎようとするころ、大阪大学で一緒だった武澤先生が名古屋大学でICUを立ち上げていて、そこに加わることにしました。循環器内科医の仕事は面白かったのですが、3年やっても集中治療医として働いて地域の基幹病院でICUを立ち上げるような仕事をしたい、という気持ちにはなんら変わりはありませんでした。 1991年、名古屋大学の集中治療室に入職しました。「入局」という手続きも意識もありませんでした。職場として選んだという感覚です。<写真1>
1992年8月 名古屋大学のICUで勤務を始めた頃の写真。集中治療医として充実した日々のスタートでした。
入職してすぐに、当時集中治療室の責任者であった麻酔科の島田教授に「私は大学に向いていないと思います。市中病院向きです。3年くらいで大学を出して下さい。地域の基幹病院でICUを立ち上げるような仕事をしたいのです。」と話しました。島田先生には、にこにこしながら聞いて頂きましたが、今思い返すと「元気でちょっと生意気そうな若手だな・・」くらいに思っていらっしゃったのだと思います。
結局、名古屋大学に14年もいることになりました。ICUが立ち上がったら、当時休眠状態だった救急部を立て直す仕事に加わり、それが形になると救急・集中治療医学講座の設置が決まりました。直接の上司の武澤先生が教授になり、私は講義や実習のメニューを作ったり、卒業試験の段取りをしたり、色々な実務をしました。
大学という場所で働いたこの期間は、色々なチャンスがありました。名古屋市で院外心停止の地域ウツタイン統計を取り始めたり、カナダや英国でEvidence-based Medicineの教え方に関するワークショップに参加したり、それに関連して国内でも色々なワークショップやセミナー、研究班などに加わる機会を頂きました。その一つ一つが、自分にとって価値あるチャレンジであり、ネットワークを広げるチャンスでした。また臨床研修制度導入に向けて、大学の卒後研修センターの兼務スタッフとなったりもしました。病院ではなかなか経験できないことでした。
大学で10年を経過する頃から、自分が大学で働き続けることは無理だと感じていました。何度か大学から離れることを試み、またそのことを周囲に相談し、上司に説明するという日々が続きました。手には集中治療専門医と40歳を超えて取った救急科専門医・指導医という資格がありました。<写真2>
2006年10月 名古屋大学の送別会の記念写真。一緒に患者さんを診た多くの診療科・部門から、教授・婦長をはじめ多くの方に来て頂きました。
4)結局、倉敷に戻ってきた
で、結局2006年に倉敷中央病院に戻ってきました。倉敷で働いていたときに出会った小児循環器の馬場先生(故人)との再会がきっかけでした。総合診療科のたった一人の主任部長として採用され、医師教育研修の責任者も兼務しました。救急センターで毎日研修医の振り返りカンファをし、研修プログラムの整備、院内の図書・情報検索や研究支援などのシステム作りを進めました。
2010年から救急センターの責任者も兼務することになりました。この時当院の部長会議で、病院が望むのなら病院の「悲願」といわれた「救命救急センター化」を目標にする、と宣言しました。実は入職したときから、この病院の救急は日本一のレベルになると信じていました。あとは病院が望めば必ずその成果はもたらされると信じていました。その頃から、救急のスタッフも増えて行きました。そして宣言から3年後の2013年4月、県内5番目の救命救急センターとして認められました。この時に、救命救急センターのICUを立ち上げることができました。<写真3>
私が地方の基幹病院でICUを立ち上げるような仕事をしたいと思ってから、26年経過していました。遠回りをしたけど、26年で研修医1年目に決めたところにたどり着いたのでした。
現在は、年間救急車の搬入台数はほぼ1万台、ウオークイン患者数は5万人、そこからの入院患者数は約9000人という国内最大規模の救命センターになりました。重症外傷も年間160例を越え退院時生存率は85-90%で推移しています。都市部の外傷センター並みの体制となりました。救命センターのICUには年間500人近い患者さんが入室されます(2014年度実績)
でも、安心はしていません。好事魔多し、と言います。これから厳しいターニングポイントがきっとやって来るだろうという覚悟があります。しかし、これまでのことを思えば、きっと乗り切れるだろう、やりきれるだろう、という思いもあります。ここには書いていない難しい状況や危機的な事態もいくつかありましたが、それも乗り切ることができましたので。
2013年4月 救命救急センターの開所式。救急ICUに院長や病院幹部に集まって頂きました。
医師としてキャリアを積む上で最も大切にしていることは
私のキャリアにとって幸いだったのは、自分の施設や専門分野を超えた多くのプロジェクトに参加する機会があったことです。そして、たくさんの人たちのチームに加わってきたことです。
若いときに色々な診療科でお世話になりました。大学でも病院でも授業改革や教育研修体制整備、情報システム見直しなどの横断的なプロジェクトが多かったように思います。学外・院外の会議や研究班などでも診療科や学部を越えたこともやって来ました。行政機関とも、地域調査やデータベース整備、ガイドライン作成など、いろいろな事に関わりました。 たとえば、倉敷に戻ってきてから岡山の薬剤師を中心としたOCA(Okayama Critical Appraisal)というグループと定期的に医学論文を読むワークショップを開催してきました。その中で、職種や施設、大学などを越えたさまざまなつながりを感じてきました。
<写真4>
このような広い関わり合いは、自分のキャリアを積む上でこだわってきたことでもあります。役に立つ医者でいたいという思いが、自分の行動規範になっていました。それが、自分の人生の価値を高めてくれました。
なるべく多くの人とつながり、多くの人のプロジェクトに参加する、そしてその成果を共に享受し喜ぶ、そんな感じです。
そして、今一緒に働いている病院の中でも、立場もキャリアも資格も全く違うスタッフと一つの目標に向けて取り組んでいるプロジェクトをいくつも抱えています。
ただ、最近は院内の管理的な業務が大きくなって、院外のプロジェクトに参加することが減ってきています。自分でできない分、私の周辺の若手には多くのプロジェクトに参加して、色々なチームの中で活躍する経験をして欲しいと願っています。また、私がこれから手がけるプロジェクトでは、参加する人がお互いを共有し成長し成果の出るものであるように工夫して行きたいと考えています。
このようなプロジェクトを通して色々な人と接してきたことはたくさんのメリットがありました。具体的に一つ挙げましょう。
私は、色々な局面で迷ったとき、周囲に相談してきました。この人に相談したいと思ったら、ふだんは話しにくい内容であってもなるべく具体的に話して相談してきました。そこで気づいたことは、どんなに成功したように見える人も、それぞれに悩んだことや難しい状況はあり、それを乗り越えて今に至っていることでした。会議などでは知り得ない、いろいろな事を教えてもらいアドバイスをもらいました。そんな相談をした人とは、その後も強いつながりを持っています。
そんな相談をしようと思えたのも、一緒にチームとして働いた人とは、情報だけではなく感情や価値観もやり取りしていたからだと思います。その中でこの人だったら、私の状況を理解してもらえる、その上で重要なアドバイスをしてもらえる、という判断の根拠を得ていたのだと思います。
1997年ごろから色々な場所でEBMに関するワークショップを開いています。このTシャツは岡山の薬剤師の方が中心のOCA(Okayama Critical App
後輩へのアドバイス
私は医師教育研修の責任者として、また2014年からは人材開発センターの責任者として、多くの職員や院外の学生・若手とキャリアについて話す機会がありました。その中で、心に留めているポイントを3つ紹介します。
1)目標は遠くに
最近の評価が頻回に繰り返される風潮の中では、短期的な成果がもてはやされがちです。しかし、職業人としてのキャリアは数十年をかけて形成されるものです。
「すぐ結果が出ない」「○○を目指しているけれども無理だと思うのでやめる」「あれをやりたいから、今から(来年から)こうする」と言った意見に接したら、目標は遠くへ、とアドバイスしています。若手の近視眼的なキャリアイメージはとても危うく見えます。短期的で急激で頻回な変更は小さいループでどうどう巡りになってしまうことがあります。もっと遠くを見てキャリアプランを立てなさい、そうしたら今の少し我慢やちょっとした後戻りに見えることが、あとで価値あることになることも多いよ、と話します。
2)多面的な評価の視点を
現在、地方行政機関や厚労省などの会議のメンバーとなって、医師以外の立場の方と医療に関して意見交換をする機会があります。そこで感じるのは、医師を評価するのは医師ではない、ということです。医療を評価するのは医療を提供する人ではない、とも言い換えられます。
私たち医師は、ついつい周囲の医師からの評価に一喜一憂しがちです。でも、ちょっと外に出ると「世間」「社会」「一般市民」という視点から評価されている自分を感じます。この視点を持っておかないと、長期的には身勝手なキャリア形成に陥る危険を感じます。
今、当科・当センターの若手には、当院以外での研修やセミナー、行政機関との協力事業などに積極的に参加するように勧めています。個人的に得手不得手はあるようですが、このような経験が長期的には自分自身に対する多面的な評価を得て、長く正しく有意義なキャリア形成につなげてくれるのではないかと期待しています。
3)自分を育てることを楽しんで
あとは、自分を育てることを楽しんでください。楽をしなさいということではありません。難しいことをやり抜いて成し遂げたときの高揚感は、自分を育てる楽しみの最たるものです。小さなことを挙げれば、学生時代に学んで、役に立つのかなと思いながら憶えたり身につけていたことが頭のどこかに残っていて、医療の現場で「なるほど!」と感嘆するほど納得できたときも、楽しい一瞬です。
自分を育てれば、必ず答えてくれます。注意するべきことは、育てるためには時間がかかること、手間もかかること、そして、育てる方向性を見誤らないためには少しあそびを持って多面的に考えて進めることです。
最初は知識や小手先の技術の取得でよかったのが、チームの中での分担や協力などのスキルが求められるようになり、さらに組織間の協力・調整やプロジェクトの遂行などのスキルが必要になり・・・と、どんどん自分に求められる内容もレベルも変わってきます。
だからこそ、自分に寄せられる色々な要求や期待に気づいて、それにこたえられるように自分を育てることを楽しんで欲しいと思います。
これが、キャリア形成について若手から相談を受けたとき心に留めているポイントです。
<補足説明> 大学との関係について
最近若手医師から「大学がいいと思いますか? 病院がいいと思いますか?」と言った質問を受けることが増えてきました。
私と大学との関係は不思議な関係です。大阪大学を卒業しましたが、一番長く働いたのは縁もゆかりもない名古屋大学であり、今働いている倉敷中央病院には大阪大学や名古屋大学卒業の医師は圧倒的少数派です。救急科にも総合診療科にも両大学出身者はいません。それでも、合わせて27名のスタッフに恵まれています(2015年4月現在)。スタッフの出身大学には興味がなくなっています。自分自身が特定の医局に属さなかったので、所属にこだわらない自由な関係を築くスタイルでいたことが、今メリットになっていると感じます。
振り返ってみれば、私は特定の医局に入局したという意識のないまま、研修医として2年、教員として14年大学にいました。このことでたくさんのメリットがありました。多くの研究やプロジェクトに加わることができたのは大学にいたからです。
そして今、倉敷中央病院の部門責任者として、図書や医学情報の充実や、臨床研究の支援体制、さまざまなプロジェクトの計画・実施・受け入れを進めてきました。私が大学で経験したことのほとんどは当院で経験できるようになっています。学生や研修医の受け入れ先も広がっています。これからも、一般病院のデメリットを少なくして行きたいと考えています。
私は、自分の部署や病院そのものが、開かれて変化をいとわない前向きな組織であってほしいと思っています。それが長期的には時代の変化にも対応することができる、成長し適応し続けることができると感じています。これは、当院の組織文化から感じることです。昨日と一緒だったらそれは後退、とはよく院内で耳にする言葉です。当院は「院是」「理念」が明確で、それが組み入れられればどのような変化も受け入れられる素地があります。一方で、最近は時代と社会からの要求に合わせて組織改革を進めている大学が目立ちます。私たちもそのような取り組みからたくさんのことを学んでいます。
「大学か 病院か」という質問に対しては、「大学も病院も一括りにできるものではありません。あなたが考えているその施設の特性と自分の状況を冷静に判断・評価して決めたらいいですよ。決めたあと、メリットを最大にしてデメリットを最小にするように努力して下さい。」と答えたいと思います。 重要なのは、入局するかしないかとか、大学かそれ以外かとか、あれかこれかと、二者択一のようなイメージで考えないことです。決めるのは、あなた自身のキャリアにかかわることです。大学だって病院だって複数だし、組合せを考えれば無限です。多くの選択肢の中から、自分が納得できるもの、イメージに合うものを選んで下さい。そして、選んだあとには、選んだ選択肢を最大限活用するという努力を惜しまないで下さい。目標は遠くに、多面的に評価して、そして楽しんで。
<写真5>
2014年春 救命救急センターの玄関と桜。お気に入りの写真です。
この文章は2011年8月に掲載されました。
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